ある、哲学に関する講義の、感想

講義中盤の<ポストモダンにおける人文学>の話の中で、モダン科学に対する懐疑(「本質の存在の有無」の側面)への言及がありました。そして、ポストモダンの立場は、

「ある事物においては、絶対的な本質は存在しない。存在するのはただ他の事物との差異や、そこにおいて発生する他の事物とのあらゆる関係だけだ。」

という解説がありました。ここで思ったことが二点有ります。

1 人間や個人は、ある事物に含まれます。そうすると、<私>すらも絶対的な本質を持たないということになり、つまり<私>は、他者をはじめとする他の事物との差異や諸関係によって規定される相対的な存在に過ぎないことになります。私が他者にとってそのように認識されることには特に違和感はありませんが、私にとっての<私>が相対的にしか存在しないというのは、理解できないように思いました。なぜなら、私は目を瞑っていても耳を塞いでも、そのような他のあらゆる受容を中止しても、私であり続けると思ったからです。私と世界との臨界面より内側を<私>とするならば、仮にその外側に何も存在しなくとも、<私>の中に脳があり、それによって思考し、<私>を認識できるのではないかと考えました。こうして考えると、私は絶対的な存在のように思えます。

2 ペンの例を先生が出された時、<事物の存在>は、普遍的なようで、実はごく主観的なある種の運動なのではないかと思いました。例えば、広い教室に学生が二人だけいて、机の上に一つのペンがあるかないか、という問題があったとします。一方の学生は、机の上にペンがある、といい、もう一方の学生はない、と言った場合、その机の上にペンがあるかないか、第三の絶対的かつ公正な観察者の存在なしにはわかりえず、仮にその観察者がいなかった場合、即ちペンの存在の有無については結論が出ないということになります。このことは、学生100人になった場合に、99人が「ペンは存在する」といったとしても、変わらないのではないかと思います。主観的にペンの存在を認める学生がいくら増えようと、一人でもそのペンの存在を主観的に認めない学生がいれば、そこに普遍的にペンが存在するということは言えないと思います。

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