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馬と競馬と淀と競馬場と競馬ニホンのこと

5月最終週の日曜日はダービー。ということで。バックトゥ1976

関西人にとって、ダービーはリアリティがないといえばない。4歳牡馬(ネットがなかった時代は、馬は数え年だったんだ)のレースって、今でこそ京都新聞杯が春にあって、ダービートライアルの意味あるレースになっているけれど、それも昔は菊花賞トライアル(秋開催)だった。

 関西から皐月賞、ダービーへ向かう馬は、関西の刺客とか、〇〇厩舎の秘密兵器とか、必ず言われたものだ。

 淀に育った競馬小僧がそんなダービーを初めて意識したのが、小学校4年の時、後にTTG と言われるテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスの1976年だった。

 実はその年のダービーはTTGではなくて、クライムカイザー。そして関西の刺客はテンポイント(春は関東で走っていたけれど、栗東 小田和厩舎の馬。スポーツ紙、夕刊紙は関西では常にテンポイントがトップ記事だった)。

 とはいえ、テンポイントではなく、皐月賞でテンポイントを抑えた馬をテレビで見た時、少年の心は、あの馬「カッコイイ」だった。

僕はトウショウボーイが大好きになった。

 後に、テンポイントもそう呼ばれるのだが、まさに「天馬」と呼ぶのにふさわしい馬だと思った。10歳の少年だからこそピュアにそう思ったのかもしれない。が、当時はスーパーカーブーム、そしてF-1日本グランプリが行われた年で、いわゆるインダストリアルなデザインに非常に興味を持って勉強していた頃だ。そんなスーパーカーに心惹かれる少年の目が一頭の馬に心奪われたのだ。

 そこからトウショウボーイの追っかけが始まった。成基学園の日曜スクールや模擬試験も、明親ジャガーズの練習や試合も休んで父親にせがんで、トウショウボーイの出走するレースに出かけた。

 後にも先にも、ダービーを生で観たのは1976年、そのダービーだけだ。

 成人して、馬券が買えるようになってからもG1 が府中であっても、競馬は阪神か淀に出かけてオーロラビジョンで観ている。たまたま中央道を走って府中の東京競馬場を観たことは何回か経験しているが、わざわざ府中や中山に出掛けたことはない。


トウショウボーイは単枠指定(父親はこの単枠指定が嫌いだった。「日本中央競馬会(当時はJRAという呼称も無かった)が、◉打っているようなものだ」とよくいっていた)。4角を周ってきたときには子供心に「勝った」と思った。

しかし勝ったのは、馬体を合わせてきたクライムカイザー。そう、皇帝だった。

記憶が曖昧だけれど、オケラ街道を歩く道道、ほとんどしゃべらなかったらしい。

連れて行ってくれた、父には本当に悪かったと思う。

しかし、トウショウボーイはきっとやってくれると信じて、札幌記念は行くのを我慢して夏季講習と野球の練習を頑張った。

その甲斐があったかどうかはわからないが、神戸新聞杯、京都新聞杯のトウショウボーイはもちろん先頭でゴール板を駆け抜けた。特に神戸新聞杯は、クライムカイザーに影も踏まさぬ強さだった。

続く菊花賞。そのときはドロドロの馬場で、4角を抜けたときやはりトウショウボーイが頭抜けてきた。でも残り1ハロン。テンポイント、グリーングラスに抜かされ、残念ながら3着だった。でも、ダービーの時のような悲しさは全く無かった。

そのときに学んだというか、感じたのは、「強い馬 とはどんな馬なのか」というレースっぷりというか様である。

トウショウボーイは本当に強かった。そのボーイに勝ったグリーングラス、テンポイントも強かった。

僕にとっての「トウショウボーイの追っかけ」は菊花賞で終わった。

けれど、この日からTTGの時代というか名勝負は続いていく。

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