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キーワードは「植物」

BS朝日『東京ベランダストーリー(現ベランダストーリー)』では、ベランダ主の「マイベランダ」を紹介するというだけではなく、主が大都会東京でベランダに手を入れながら暮らすに至った経緯を掘り下げる、何気に深い番組なのであった(失礼)。なぜベランダで植物栽培なのか、普段自分で考えることのない動機についても今回あらためて振り返る、よい機会となった。

「なぜベランダで植物栽培?」このシンプルな質問。朝起きて、朝食を作り洗濯物を干し、必要に応じて植物に水をやる。自分にとって掃除機や洗濯機をかけるのと同じように日常生活にある植物栽培。それをなぜ?と問われると、なんだか違和感がある。そういえば、なぜだろう。

誰しも、何か趣味関心ごとがあるだろう。でもそれがなぜそこに至ったのかということについては、自分で分かってはいても、人に尋ねられたりしない限りわざわざ振り返ったりする事はそうない。ジャンルによっては人によく尋ねられるのかもしれないが、ベランダ植物栽培って、「わーすごいねえ」と感心されたりする事はあっても、それ以上踏み込まれる機会はそんなにない。いや、ほぼない。

一体いつからこうしてベランダで植物栽培を始めたのだっけ?普段人に話すこともそんなにない今まで自分の歩んできた道のりを、植物栽培を軸に振り返ってみた。すると大きく2つの体験がきっかけになっていることに気がついた。「母方の祖父の家」と「スウェーデン」である。

母方の祖父、殯の森

母方の祖父は、山口で生まれ育ち、早くに両親を亡くし結構孤独な子供時代を送りながら大学で地質学を学び、第二次世界大戦中は満鉄調査部に勤め、お見合い結婚をし祖母と北京で暮らしていた。戦後、子供の頃亡くなった両親の残した土地のあった山口で、本人曰く「百姓をしながら暮らそう」と帰国したが、成り行きで大学で教えることになり、いくつかの大学で教鞭をとった後、定年を迎えるまで名古屋大で地質学を研究し教えるかたわら山岳部長も務めていた。子供の頃から野山を駆け回り、自然を身近に暮らしていた祖父は、とにかく山が好きで、富士山に登ってふんどし一丁にスキーで滑り降りてきたり、山岳部の学生を引き連れてアフリカの最高峰キリマンジャロに登山に行ったり、調査という名目で文字どおり「趣味と実益を兼ね」いつもあちこちの山に登っていた。山にいる時、自然に囲まれている時が一番幸せそうな祖父だった。

そんなまさに「好きなことで生きる」を体現していた祖父は、定年退職後、故郷の山口に戻るでもなく、当時鉄道を通す計画があったためよく地質調査に通っていた紀伊山地を気に入り、自分の見立てで地質的に地震があっても大きな被害のなさそうな、日当たりの良い奈良の市街地から車で30分ほどの、のちに河瀬直美監督作品『殯の森』の舞台となる田んぼと茶畑となだらかな山々が連なる丘陵地の小高い茶畑を800坪買い取り開墾し、暮らし始めた。薪の木を中心に置いたロータリーを作りちょっとした車寄せにし、真ん中の丘の上に母屋を、それを挟んだ南北の斜面に2つの畑と農機具をしまっておく小屋を建てた。庭と畑はほぼ一人で植栽を決め、植え、手入れしていた。今から40年ほど前のことである。南向きの平屋の母屋の前には芝生と蓮が咲く小さな池のある庭を作り、その周りに桜の木、外側に防風を兼ねた生垣として、ネズミモチや椿の木を植えていた。北の畑の斜面には茗荷を植え、平らな場所にサツマイモを、南の畑には栗の木を何本かと季節の野菜を育てていた。和室の外側には竹を、台所近くの勝手口のすぐ外には山椒の木が植わっていた。

私の記憶する祖父は、私が幼稚園に入るか入らないかのころ、大学を定年退職し奈良に移ってから。今でも目に浮かぶ祖父の様子は、敷地の一番奥、家の北側に作った静かな自分の書斎でうず高く積まれた文献や地形図の山に埋もれながら、書きもの(まだ名誉教授として少し仕事をしていた)か読書をしているか、そこに姿がなければ外で庭や畑いじりをしているか、どちらかだった。家にいる時は静寂を好み厳しい祖父だったが、一歩外に出ると、目をキラキラ輝かせながら、庭木や畑の手入れを一日中、自然とたわむれながらひとりでしていた。春、桜の花が終わり葉が出ると、毛虫の発生した枝を竹の先に灯油を含ませた布に火をつけて焼き駆除したり、夏の夜には昼間に蜜を仕掛けた近所の墓地に生えるクヌギやコナラの林に懐中電灯片手にカブトムシやクワガタを獲りに行ったり(本当に怖かった)、秋になると焚き火をしてホイルで包んだサツマイモをその中に投げ入れ焼いてくれたり。夕飯だよ、と呼びにいくと、土から出てきた虫を私に見せ、「食べるか?」と聞いてきて、驚く私を見て喜ぶ顔は、無邪気な少年のままだった。

当時神戸の団地に住んでいた私は、休みになると電車に揺られること2時間近く、近鉄奈良駅から数時間に1本山肌を縫うようにクネクネ走るバスに乗り、毎回激しい車酔いと闘いながら標高数百メートルの山間にある祖父の家に遊びに行くのが恒例の休みの過ごし方だった。今も昔も珍しく車を持たない私の両親の交通手段は、自分の足か電車、もしくはバス。祖父宅最寄りのバス停に降り立つと、停留所のすぐ脇に「幽霊さん」と地元民に呼ばれていた文字どおり向こう側が透けて見えそうな、髪の長い華奢な女性の経営する、営業しているのかいないのかもわからない浮世ばなれした雑貨店以外には見渡す限りの田んぼと、田んぼの向こうに見える小さな集落が目に入る。その田んぼを貫く、車一台通るのがやっとの細道を山のほうに向かって歩いていくと、いつも人気(ひとけ)のない数軒のしっかり塀で囲まれた古い家が立ち並ぶ小さな集落があり、そこを抜けると民家はなくなり薄暗い杉林が現れ、さらにその林を5分ほど歩きつづけると耕作放棄され雑木林と化した茶畑があり、その向こうに祖父の家があった。

入り口はオープンで、林が途切れたところに生垣が現れ、生垣の途切れているところから敷地を覗くと薪の木が真ん中に植わった円形のミニラウンダバウトのような車寄せがあり、その奥に家がある。玄関だけなぜか入るとちょっとした旅館か料亭の入り口かと思うくらい広く立派だった祖父の家は、今思えば普段は口数こそ少なかった祖父の、訪問客を歓迎する気持ちの現れだったのかもしれない。退職後も祖父のもとに、山岳部のOBや友人たちがよく訪れ、酒を酌み交わし山談義に明け暮れていたようだった。

こう書くと、楽しいばかりの山暮らしのようだが、田舎暮らし、山暮らしは実際のところ、厳しいし、恐ろしい。小さなころ家族と泊まりに行っても、祖父が亡くなり引き続きひとり暮らしていた祖母を一人で訪ねて行くような年齢になっても、毎回バス停に降り立ち、集落を抜け、薄暗い林の入り口にたどり着くと、一瞬背筋が伸びて、緊張する自分がいた。都会から来る者にとって、田舎の夜の暗さは実のところとても不気味である。毎日夕方になると、今日もあの漆黒の夜が来るのか、と憂鬱になるのだ。家の南側に広がる芝生の庭の、その先の隣の土地は少し高くなっていて、ミッシリと茂ったコノテガシワの生垣で向こう側が見えないように区切られていたのだが、その向こう側には当時まだ土葬の、その集落に暮らしたひとびとの眠る、プリミティブな墓地が広がっていた(奈良や京都の山間部における土葬の風習については、講談社現代新書から出ている高橋繁行著『土葬の村』に詳しい)。当時の土葬墓地は、いわゆる墓石が区画ごとに整然と並ぶような、都会っ子のイメージする墓地からは程遠い、墓石と読めない文字が毛筆で書かれた木札が混在というかまるでプラハのシナゴーグに無秩序に突き刺さる墓石の如く乱立していて、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のPVごめん夜になるとにょきっと土の中から青い顔をした和風ゾンビが出てきても違和感がない、生と死がせめぎ合う私にとってはただただ不気味な場所だった。

「自然とともに暮らす」ということが、美しいとか心安らぐということよりも、厳しく怖いものであるということをかなりのインパクトをもって垣間見させてくれたのが、私にとっての奈良での体験だったと思う。




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