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原宿 1980 夏_48

 

No. 48 oclok


鹿鳴館の初ライブが終わった
オレはどうしたことか気持ちがナーバスになっていた。
あんなにやりたかったバンドだったのに。
漠然と思い描いてた夢はリアリティがないからフワフワした気持ちでいれたのだろう。
それが良かったんだろう、
それで良かったんだろう。
やってみて初めてわかったことはバンドで絶対に有名になってやるんだ的な気持ちはなかった、ましてやオレのバンドのメンバーに比べたら。
きっとその気持ちをメンバーに教えられたのだろう。
スタジオ練習をしててもその気持ちを察してメンバーから言われる日がきた。
『 今のリーダーではオレ達はついていけない。 』
『 、、、、、 』
『 すみませんリーダー 』
『 わかってる、オレがいちばんわかってる。』
『 リーダー、、、』
『わかったもう言わなくてもいいから、わかった。 』


そしてオレはバンドをやめた
帰りの電車、アパートへの道すがらナゾの空虚感になにかが終わった気がした。
そして自問自答してこれで良かったんだと自分に言い聞かせた。
バンドはそれからも続けていって何度もその後スタジオで録音したテープを送ってくれた。いい奴らだな。
オレのアパートにもみんなで遊びにきて今のバンドの話や原宿の話でなんのわだかまりもなく笑い語りあった。
ほんといいメンバーでよかったと思った。
ライブにも何度か誘ってくれた。
その後ベースのテツヤが辞めてボーカルの山本がベースを覚えて弾きながら歌っていた
奴らのやる気をものすごく感じた。
時代はアメリカのロカビリーバンドのストレイキャッツが話題をよんでた頃でバンドもロックンロールからロカビリーに変化をとげて髪型も長髪パーマのリーゼントになっていた。
曲もジーンビンセント、エディ・コクラン、バディ・ホリーのロカビリーのカバーに
オリジナルもやっていた。
新宿のルィードや渋谷のクロコダイル、ここでやったときは対バンがマフィアというバンドでボーカルがエーちゃんばりにリーゼントに白のスーツで語る、、、
『 次の曲はオレが少年院に入ってた時に作った曲です聴いて下さい。 』
客席はオールヤンキーの男と女みんなタバコ吸いながらアミサンでウンコ座り、昭和の不良達、懐かしいそんな時代でした。
そしてかなり良いところまで
いったのだがバンドは解散してみんなそれぞれの道を歩みだした。
ただひとり音楽の道に残った
ブルースハープのテツナカムラ、そうテツヤがその後のオレの人生に大きなあるキッカケを与えてくれたのだ。


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