Twitterとは「共感」の文化である

今年は社会的にテレワークやリモート化が進み、自分も例外なく影響を受け、大学はオンライン授業となり自宅に籠ることが多かった。もともとそこまで積極的に外に出たりつながりを多く持つような人間ではなかったので、見かけ上は普段の生活から外に出る機会が減っただけで大きな変化はないように思う。

ただ、一日中家に居続ける・誰とも会話せずに一日が終わる日々を過ごし続けていると強烈な孤独感に襲われる。

さすがにこれはまずいと思い、ふと姉に電話して聞いてみた

「最近ずっと家にいるから、めちゃめちゃ孤独感を感じるんやけど…もし今自分が死んだら、2,3か月くらい誰にも気づかれへんかもしれんなぁ」

「いや、その場合は仕事で無断欠勤になる→連絡に返信がない→勝手に解雇することはできないから不審がった職場の人から家族の連絡先に電話→自宅まで来るってなるから、多分2週間ぐらいで見つかると思うで」

なんという正確な答えか。ある意味感心したわ。

「人は6つ以上のコミュニティに属していると精神的に安定するらしいから、今あるコミュニティの数を確認して増やす努力をしてみたら?」

確かに一理ある。じゃあ何を始めてみるか?今までTwitterは「はまってしまうと抜け出せなくなるぞ」的な話を聞いて十中八九そうなるだろう自分は避けていたが、まあいつでも辞められるしな。やってみるかというところで初始めてみた。

前置きが長くなったが、使い始めてみて一週間立って感じたこと・考えたことをまとめてみる。

フォロワー数を気にしてしまう自己嫌悪・嫉妬

もちろんTwitterをずっと知らなかったわけではないし、好きな実況者のアカウントやそのリプ欄でのやりとり、バズっている面白いツイート等「ほー、Twitterっておもろいなぁ」という何となく見ることはあった。

ただ、単に見ているだけと実際に事を起こすのはまるで違う。実際にいくつかツイートを感じてしてみて感じたのは、フォロワーの数を結構気にしてしまうということだ。

趣味の分野でいくらかいる知り合いを手当たり次第フォローしてみたが、皆どうやってこれだけのフォロワー数を得ているのだろうか。まあ、一週間使っただけの初心者と使用歴がまるで違うのだから当然といえば当然のことではあるが。

もちろんフォロワー数だけが全てではないが、同じツイートでもフォロワー数の多寡によって反応が違うのは言うまでもない。当然何かをツイートしている以上はその発言に何かしらの共感・反応を求めている人がほとんどだろう。例にもれず自分もその通りで、つい他人のフォロワー数を気にしてしまう。

Twitterをどのような使い方をするかは人それぞれだが、フォローをする行為の本質はその人に対して関心・興味があるからだろう(もちろん、付き合いなどはあるかもしれないが)

フォロワー数が多ければそれだけその人に注目を持つ人が多いといえるし、逆もまたしかりである。それだけに知人のフォロワー数を気にしてしまうし、気にしている自分に自己嫌悪もすれば相手に対して嫉妬もする。

「○○好きと繋がりたい」の違和感とその正体

Twitterを始める前に「なんやこれ」と感じていたハッシュタグの一つに「○○好きと繋がりたい」というものがある。始める前は「そんなことしなくても、興味ある人は勝手にフォローするし興味なければフォローせんやろ」と思っていたし、そういった形で繋がりを作ることに対して何か意味があるのかな、と感じていた。

ただ実際にTwitterを使うようになってみて、このハッシュタグをつけたくなる気持ちはよくわかった。Twitterという万人に見られる媒体で情報を発信している以上、誰かに認めてもらいたいし、フォロワー数を増やしたいと感じるのが自然である。

ただ、多くの場合実際に会った知り合いでもない人に対していきなりフォローするのは心理的な抵抗が大きいように感じる。

そこでこのハッシュタグの出番である。「○○好きと繋がりたい」という前置きを入れれば「私は○○(共通の趣味)が好きなあなたと繋がりたい(支持されたい)し、逆にあなたに対しても(○○という共通な分野があるから)支持しますよ」ということを示せる。これは確かに読み手からしてみればフォローしやすいし、楽。

ただ一つ勘違いしてほしくないのが、別にフォローしてもらった相手に対して何かする義理はない、ということである。Twitter上で本当に繋がりを求めている人はいるのかもしれないが、本質としては「支持されたい」というものがほとんどだろう。

そもそもフォローするしないは個人の自由だし、そこに対して何の取り決めもない。好きなようにフォローしてつまらんなってなったらフォロー解除すればいいだけである。そこに余計な期待と関係性を持ち込むからこそ、面倒なトラブルや複雑な感情に苛まれるのだろうなと感じた。

「誰か」に対する不平不満はなぜ散見されるのか

これは使い始めるまで知らなかったのだが、Twitterにはフォロワーの人がどんなツイートにいいね(Favorite:ふぁぼ)をつけたのかというのが(否が応でも)しばしば目に入る機会がある。その結果、特定の誰か・現象に対しての批判的な内容を否が応でも目にするようになった。

正直見ていてあまり気持ちのいいものではないし、「なんでそんなこと言うねん。心のうちにとどめとけや」と内心思っていたのだが、いいねが多く集まっているということはそれだけ注目というか、反響があるわけである。

例えばこれが自分自身に対しての批判、いわゆる「数学のテストで赤点とりました。泣」のような発言に対していいねはつけにくい。失敗に対して肯定してくるのか?と曲解される恐れがあるからである。

ではこれが他人や不特定多数に対しての批判であればどうだろうか。その批判の内容が的を射ている場合、同じような境遇の人からしてみれば共感しやすい。「自分もそう思います」というのを態度として示せるからである。

しかもそれが不特定多数に対しての発言だった場合、批判することに対して罪悪感が薄くなりがちである。ボタン一つで「確かに、自分もそれは嫌だ」というのを表明できるのだから、これほど楽なことはないだろう。

意外と自分の発言は見られているよ、ということ

最近とある大会の予定があったのだが、どうしてもやらないといけなかった大学の課題が結局終わらず、当日になって不参加することにした。

正直自分にとってその大会に向けてそこまで積極的に練習していたわけではなかったし、参加したところで勝てるビジョンが全く見えないし、誰かと行く約束をしていたわけでもないので不参加とすることに全く抵抗はなかった。

「詳細についていちいちツイートするのもそれはそれで面白くないからなぁ~~~~ちょっと遊んでみるか」

という思い付きのもと、「あ゛」という謎のツイートを時計の画像と共にしたところ、後日いろんな人から本気で心配された。そんなに付き合いがなかった(と僕は思っていた)人からもたまたま会った時に「どうしたんですか???」と聞かれる始末である。

「そんな謎のツイート、見る価値ありますか?」と自分は内心思っていたのだが、ツイートアクティビティ(ツイートに対する分析機能)を見て驚いた。

筆者のフォロワー数は数十人程度だが、分析を見てもその5倍程度の人が自分のツイートを見ている(もちろん、二重に表示されているのもあるかもしれないが)目まぐるしく変わるTwitterのタイムラインの中で、自分程度でも100回以上自分の発言を見られているのである。

Twitterの語源は「tweet:小鳥のさえずり/呟き」であるが、実際にこの感覚で好きなように発言をすると些細な失言から信用を失いかねない。先述した通り、的を射ている批判(=自分がしている行為が社会的に見てアウトだった場合)は共感を得やすい上に、その伝播は恐ろしく早い。

つぶやき、というよりは「張り紙」という感覚で使ったほうが安全だと感じた。

Twitterとは「共感」の文化である

人間とは一人では生きられない生き物である。「誰からも認めてもらわなくていいし、理解されなくてもいいと心の底から思っている」ような人はほとんどいないだろう。

だが「認めてもらいたい・共感してもらいたい」という思いの強さには個人差があるうえに、「そういうものは求めません」という態度をとっている人もいる。

ただ、自分のした発言に対して誰も見向きをしない、というのは多くの人にとって虚しいものではないだろうか。伝えたいことがあるから発言するのである。認めてもらいたい、共感してもらいたいから発言するのである。

そういった人それぞれの思惑や感情が複雑に絡み合い、今のTwitterが成り立っている。この流れに合わせるもよし、逆らうもよし、上から見つめるのもいいだろう。要は向き合い方である。そこがはっきりしていなければ、いずれ溺れてしまう。

このある種の「文化」的な潮流に対して、自分自身がどのような向き合い方をしているのか。

今一度問い直してみてはどうだろうか。



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