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「競争闘争理論」~を読みまして。

この度、鎌倉インターナショナルFC 監督 河内一馬さん執筆の競争闘争理論を読了したので、感想や考察を読書感想noteとして残すことにした。

https://twitter.com/ka_zumakawauchi?t=ZgpIoyENcFxfOf8VTCigVA&s=09

久しぶりにページを捲る手が止まらない本だった。この本はサッカークラブの監督が書いた、サッカーの本である。

しかし、西洋で生まれたサッカーを日本人が日本人的に捉えているという問題提起は、他のスポーツに関わる人にとっても興味深い内容になっている。 自分が取り組んでいるスポーツに置き換えて考えてみて読むといいかもしれない。

なぜこんな至極当然のように思える(この本を読んだ後は)問題に今まで“問題である”ことにすら気づかず、思考が及ぶことがなかったのか。

特に、全てのスポーツを同じように捉えてしまっている日本人の競争的な思考が、サッカー等の団体闘争に与えている悪影響については深く納得させられた。

競争とは「異なる時間」または「異なる空間」において、その優劣を争うスポーツ競技、
闘争とは「同じ時間」かつ「同じ空間」において、その優劣を争うスポーツ競技と定義した。
~中略~
さらに、保障される権利を、競争は自らが持つ技術を発揮する権利が保障されており、闘争においては相手プレイヤーに影響を与える権利が保障されている。

河内一馬「競争闘争理論」より

この違いを理解していれば、競争と闘争にカテゴライズされるスポーツを同じように取り組む、または捉えることが明らかに間違っていると分かる。

サッカーにおいては、何時間も練習したスキルを発揮しようとしても、それを邪魔できる敵が同時間、同空間に存在する。

日本人はサッカーを技術を発揮する権利が保障されている競争と同じように捉えていることから、

たくさん練習し、時間を費やすほど自信を持ち、負けた時にはもっと練習したら良かったと後悔する。本書では「量による自信」 と表現されている。

 日本では美学のように捉えられているようにまで思えるが、これは闘争する上で大きな間違いであると。

自らが持つ「技術」を高めること(=時間を費やすこと)が、必ずしも結果に繋がるのは限らないのが、「闘争」であり、「競争」との根本的な相違である。

河内一馬「競争闘争理論」より

日本のサッカーのオフの少なさや、過剰な練習時間をこの話と結び付けられ、納得するしかなかった。

せいぜい週3回程度のトレーニングで、オフを確保し、なんなら他のスポーツや趣味にも興じる時間を許されたヨーロッパ等で育成されたプレーヤーに勝てない。日本人はサッカー(団体闘争)を大前提からはき違えていたのかと。

実際に、長年サッカーに関わってきた自分の思考にも同じように、サッカーを競争的に捉えている一面があることに気づかされた。

潜在的に備わっている思考や、幼少期から築きあげてきた、もしくは誰かに植え付けられた価値観はなかなか変えることが難しいし、

変える必要がある事に気づくのはもっと難しいのだと改めて感じた。


サッカーは自分たちのスポーツでは無い
(非ネイティブである)
 
と作者は捉えている。確かにサッカーは西洋人が作った西洋のスポーツであるため当然であるが、

非ネイティブで、サッカーにおいてせっかく外在的である我々日本人が、その本質を捉えようとしないのはあまりにも不合理であると。

せっかくという表現を使った理由については、本書をぜひ読んで欲しい。参考文献を用いながら、物事を理解する上で、外在的であることの必要性やメリットを説明してくれている。

日本人は、世界一面白いスポーツを外から捉えられる権利をみすみす捨ててしまっている。

本書の目的である「サッカーの前提を捉え直す作業」とは、「①思考態度」へのアプローチそのものである。それは前述したように、西洋人、つまり現代サッカーを構築した人々が「わざわざ捉える必要のない前提」であるから、私たちが自ら行わなければならないのだ。

河内一馬「競争闘争理論」より

  競技に対する思考態度については他にも、自分の経験とリンクするような内容や、今まで全く意識できていなかったなと思わされるものがあった。

それは“集中する”という精神状態について。

サッカーなどの闘争における集中と、競争における集中(ここでは弓術について紹介されていた)は全く別物であると筆者は述べている。


 競争的集中=集中するため(適切な精神状態を保つため)に目的を意識する必要はない。

闘争的集中=集中するため(適切な精神状態を保つため)には目的を意識しなければならない

河内一馬「競争闘争理論」より

この文だけを見るとピンと来ないかもしれないが、本書を読み、競争と闘争の特性を理解すると、必要な集中パターンが異なることがよく分かる。

特に弓術における“正射必中"の概念についての解説が興味深い。

正しく放てば必ず的に当たる。という思考でサッカーをプレーするのは間違いである。

その正しく放つ際の同空間同時間に相手は影響を与える権利を持たない弓術の話だからだ。

正しく弓を放てば必ず的に当たるのだから、自分の中で、内的に集中を保てばいい。

常に周囲から影響を受けるサッカーにおいて、外へのセンサーを切って高める集中は有益なものにならないことがよく分かった。

集中しろ”

サッカーをしていれば何万回と指導者に言われた言葉だと思う。 

ではそのサッカーにおける集中状態とはどんなものか、どう他の競技と異なるのか。

そこに思考が及ぶ著者には本当に感服させられる。サッカーを長年プレーしていても誰も意識しないことがほとんどだろう。

この競争的・闘争的集中について、過去の記憶からリンクするものがあった。
(もちろん本書を読んだ後に初めて意識したもの)

高校時代、僕は大所帯のサッカー部に所属し、試合に行く際はバス移動がほとんどであった。

当時の監督は、バス移動中に選手がイヤホンで音楽を聴くことを嫌っていた。

試合前に気持ちを高めたり、集中するために音楽を聴くことはアスリートにはよくある話だ。ルーティンにしている人もいるぐらいだと思う。

監督が嫌う理由を説明した時の言葉を思い出した。

「バスで音楽を聞いてるやつは、試合会場についてもまだ、自分の中の世界にいるような感覚がする。ボケっとして見えるんだよ。」


当時の僕には全く分からない感覚だったが、

監督も感覚的に選手が内的な集中(競争的集中)状態になることを嫌っていたんではないかと思った。

 音楽を聴くことがどれだけ内的な集中に寄与するかははっきりと分からないが、

集中を高めていたつもり”の選手が監督にはボケっとして見えたのはそういう理由か、、、

 思考がとてつもなく深いのにシンプルな言葉を投げかけてくる監督だったので有り得る話かもしれない。

このnoteに記載した内容はごく一部で、最新の戦術論に対しても、独自の視点からメスを入れている内容もある。欧州で進化した最先端の戦術も、“サッカーの前提”を間違えていては意味が無い。

 読めば必ず新しい感覚を植え付けられる本なのでぜひ皆さんに一読してもらいたい。









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