僕が少しお母さんに近づいた日とそれを成した奇妙な人間について。

ああ、またいつものやつだ。心の何処かで僕は思った。
それは定期的な発作のようなもので、毎度何かしら誰かしらに迷惑をかけるそれだ。

その日は最近よく遊ぶ友達とゲームをしていた。
ゲームはあくまで私の趣味だし、ストレスを溜めたり他人に迷惑をかけるなど烏滸がましいことだ。
でもその日は、その日も、そうだった。

彼との関係は少し特別なように感じていた。
はじめてきちんと話をしたとき?言葉を聞いたときから?受け答えを見ていたらかもしれない。
彼の後ろには死が見えた。

死というには少し軽いかもしれない。ここでこれを人生の諦観との言葉に置き換える。

僕は昔から死をなんとなく頭に入れて動いていた。いついかなる時もぼんやりと死のことを考えていた。テストの時、受験の時、ライブの時。今も。
だからかもしれない。なんとなく人に死を、人生の諦観を見出してしまう。どこかでどうでもいいだとか、どうせできないと思っている人間に過敏である。

そして突然過剰摂取で半年薬漬けになり精神的肉体的に死んでしまった僕は、彼をいつも案じていた。
彼の外見のバランスはとても整っていた。一見何の危なげもなく人生の橋をバランスよく渡りきりそうな男だった。
でも僕から見た彼は全くの別物で、いつ笑いながら意図的にバランスを崩して奈落に落ちてもおかしくないような存在だった。

実際そんな気配は微塵も出さないようにしていたのだろう。彼の周囲からの評価はとても高いものだった。
でもそれ以上はなかった。きっと彼に近寄る人はいない。嫉妬怠惰汚い自分を見せないのに精いっぱい。距離をとる。言葉を選ぶ。
やんわりとした親近感(という名の緩やかな不安)が彼を後押ししたがった。


同じチームの時に声をかけるようにした。色々話を引き出した。相手が喋れるような環境を作っていこうと試みた。
結果、彼は私に大型犬のようになついた。歌を媒体に色々と話をしてくれた。
その端々には嫉妬や怠惰が細かくつぶさに読み取れた。

こころのなかに「どうせ俺なんか」ということばが響いていた。

どうせ俺なんか。簡単に聞こえるように思うが、これは自分を支えているものが瓦解したとき大きく死の淵へ滑り込む要素である。
そしてその支えは恐らく彼の場合、他人であった。




そしてその日も大きく喧嘩をした。思ったことを口に出してほしい気持ちも、自分で自分をコントロールできない気持ちもあった。娘が色々やったことにイライラもし、自己嫌悪の沼に足を踏み入れそうになった時

「そちゃさん、公園に行こう。公園に行って散歩をしよう。」

と突然彼が提案した。

正直、目が飛び出た。
今までの遊び、大体カラオケ、ご飯、お酒。大人の遊びだ。
「そちゃさんが苦しいのはしかたのないことで、当たるのも今は辛いけど仕方ないじゃん。だから、公園行っていっぱい遊んであげようよ。」
突拍子のない言葉に頭が追い付かなかった。
「近くに大きい公園ないの?」と彼は至極真面目に聞いた。僕は万博記念公園を挙げた。彼は、僕太陽の塔は実際に見たことないんだよね!とはしゃいだ。

ご存知の方もいるかもしれないが、僕は外に出ることができない。
結婚して今とは違うところに娘と三人で住んでいた時の僕は、元々の性格もあり近くに友人ができることもなく、家を出ることというと娘の健康診断や買い物だけだった。
僕はゲームや音楽、絵を描くことが趣味だったので外に出る必要がなかったし、娘も家でよく遊んでくれた。たまに公園に出たりすると歩くことを断固として拒否されて、ますます煩わしかった。
そしてそれは実家に戻っても変わらず、精神に支障をきたすと必ず布団に潜り込むように、PCゲームを通じて誰かと会話をしたりコミュニケーションを取るように、僕は外に出ることにとても力を使うのだ。

「でも、僕、外には出られないよ。」僕がそういうと、彼は「だから一緒に行くんじゃん?あ、そちゃさんの作ったご飯食べてみたい。お弁当作ってきてね!」と無茶振りまでかまして本当に悪意なく僕に笑いかけたのだ。
彼はそれがどれだけ僕にとって難しいことなのか知らないのだろう。と僕は少しイラついた。けれども仲良くなった今、彼が空気を読める人間だとは思っていなかったし、実際のところ、そのようにしてこの今、救われていた。


彼と僕が住んでいる位置は一概に近いとは言えない。
だが本当に数週間後のこと、彼は本当に朝からやってきた。どうやら寝たりなかったらしく、我が家の玄関でスヤスヤと眠っていた。こうまでされるとどうにもならず、いつも通り薬の影響で遅起きの僕は重い腰を上げた。

彼にコートをかけると、パジャマの娘は訝しげに彼を見つめた。
僕は苦笑いしながら鯖を仕込み、彼のリクエストしただし巻き卵を作った。美味しい梅干を頂いていたので、大葉で巻いたおにぎりも作った。仕込んだ鯖を揚げていると、彼はもぞもぞ動き出した。
僕や娘の準備があったりもして、万博公園についたのはほぼ昼前のことだった。
そういえば色々と商業施設ができていた。すっかり変わったものだ。三人して全くのお上りさんであった。

その日はとても寒かった。ラーメン博なるものが開催されており、学生でまだ若い彼は目を輝かせていた。二人で食べたいラーメンを選んで、のんびりと屋台テントで食べた。彼は学生が好きそうなこってりしたラーメンを選んでいた。僕の気になったラーメンは彼と同じだったし、実際に味も僕と彼の好みをきっちりわけた。僕は忘れていたけれど、必ずしも好みが一致することが一緒にいる時間を楽しくするわけではないのだ。
別れる前の夫も、回転ずしでわたしの好きなトロたく(その時は「まぐたく」だった)を食べてぼやいていた言葉だった。もっと自分を見て、知ってくれと。それをぼんやり思い出して、僕は少し憂鬱な気持ちになっていた。夫は言葉が僕にとって鋭いナイフだった。一言一言におびえてしまっていた。でもそれは僕自身が作り出した状況だったのかもしれない。僕にもっと何かをする力があれば。そんなことがもやもやと頭をよぎった。
それとは裏腹に、美味しそうなものを食べている、と娘が羨ましそうに僕らを眺めた。彼はそんな娘に「ママのご飯もあるからね。すぐ食べちゃうね、ごめんね」と笑いかけた。

そのまま大きい芝生の広場に出た。寒い中まばらに親子が遊んでいる姿が見えた。
ちょうどいい四人掛けの木のテーブルとイス、そしてすぐそばのベンチを位置どった僕らはそこでお弁当を食べることにした。
塩にぎりと梅のおにぎり、だし巻き卵、鯖の竜田揚げ。それから、昨日の自宅の残りのハンバーグ。男性だから沢山食べるだろうか、と大人3人分くらいの量を用意はしたが、とてもお弁当とは呼べない品数だった。それに大きなタッパーに乱雑に入れられていたし、箸も割りばしだった。でも、正直ここが何もできなくなった自分の限界だった。
それも、彼が僕は料理をすることも難しいのを気遣い、「簡単なものでいいよ」といった言葉に甘えたためだ。(冷静に考えると、こちらが作っているのに甘えるも何も無いのでは?という気持ちもなくはない。)
だが、彼は、「こんなにたくさん出てくると思わなかった」と目を光らせた(ように見えた)。

いただきます。と三人で声をそろえると、彼は嬉しそうに僕の料理を食べて、食べてすぐ、何も言わずに、美味しいと言ってくれた。
僕が自殺未遂をしてから、別れる前の夫は僕の作ったご飯の感想を聞かないと答えてくれなくなった。なんでもよかった。まずい、でも、もっとこれをいれたほうがいい、でも、(お世辞でも)おいしい、でも。なんでもよかった。なんでもいいから言って欲しかった。
僕にできることはもはやそれしかなかったから、当たり前だろう。呆れたり、諦めたり、嫌になってしまったのだろう。だけれど、その言葉をひとつだけ、一生懸命にしたことをひとつだけ、認めてほしかったのだ。

ところが目の前の彼はどうだろうか。美味しいといいながら、やっぱ料理上手いんじゃん!といいながら。娘に構う時、話す時以外箸を止めなかった。
僕は不思議な気持ちだった。頼まれたから仕方なく作っただけだった。(もちろん気持ちは込めたし、自分の余力の範囲では手を抜いたつもりはない。)それなのにこんなにも喜んで、仕方なくやった僕を彼は認めてくれた。美味しいといって笑ってくれた。僕は嬉しくて、なんだか今まで心にたまっていたものがあふれ出るかのように泣いた。こっそりと。
そこに突然芝生へ走った娘が何かを持ってやって来た。それは少し太めの小さな枝だった。手に三本持ったそれを、娘は私と彼に配った。そしてニコッと笑み、「かんぱーい!!」といって枝をかつり、と鳴らしたのだ。私は涙が抑えられなかった。

娘も早々に昼ご飯を切り上げ、目の届く範囲で走り回り始めた。彼もそれなりの量を食べたし、僕も味を確認したかったので少し自分のご飯をつついた。前は、前職の都合上分析はできれど、味はしなかった、美味しいと思えなかった。でもその日は何故か、自分の料理を美味しく感じることができた。
それでもラーメンを食べてからは、やはりやりすぎの量だった。すこし残ってしまった料理に彼は何度もごめんねと謝った。僕が料理を残すことを嫌っているのも、彼自身の申し訳なさもあるだろうが、僕は全く気にならなかった。

寒い中娘と遊び、歩き回った僕たちは休憩所へ入った。
僕は徐にスケッチブックを取り出した。今なら、なにか浮かぶかもしれない。なにか幸せな絵がかけるかもしれない。そう思ったのだ。でも気持ちだけが急いた。呼吸が荒くなる。何度も線を、色を塗り重ねる。幸せなイメージ、幸せなイメージ、幸せなイメージ幸せなイメージ幸せなイメージ幸せなイメージ幸せなイメージ幸せな

「大丈夫?」
突然隣から声がした。震えた僕のペンを持つ手を握っていた。
「あ…」僕は言葉に詰まった。
「ごめんね、描いてるとこ見たいって言ったの覚えていたんだね。無理しなくていいよ。また、頭に思い描けたら描こう?」
「あ……はは、かけなかったや」僕は無理に笑った。
「うん、またいつかきて、こんどはゆっくりかこうね。…無理して笑わなくていいよ。」

その時娘がペンをとった。そして、ぐしゃぐしゃの僕の絵の上に明るい色を引いた。しばらくして、インクがぐにゃりと滲んだ。

透明な観覧車に娘は怯えていた。彼はそんな娘に気を使いながら景色を見ていた。好きな音楽を流せるようになっているらしく、彼に勧めた「ずとまよ」のアルバムを流した。観覧車などいつぶりだろうか…世界はこんなに広かったんだな、と部屋から出られなかった僕はぼんやり景色を見ていた。
こういうの、カップルだとてっぺんでキスするんだよねなどと冗談めかした会話をした。なんだかむずがゆくなったし、余計なことを話したなと思っているうちにてっぺんが近づいてくる。僕は慌てて後ろの景色を見た。
すると、彼は僕のことを後ろから抱きすくめた。僕は硬直した。そういうつもりで、そんなつもりで、ここに来たんじゃないと伝えようとしたとき
「頑張ったね。大変だったね。そちゃさんすごいよ。えらい。」
彼の手が僕の頭を優しくなでた。僕は自分の邪念を恥じながら泣いた。泣いて、彼に縋り付いてまた泣いた。
娘が不安そうに僕を見つめる目に気づいて、慌てて僕は彼と距離を取って、笑顔になった。

商業施設でギャレットのポップコーンを食べて、そのおいしさにずるいずるいといった。キャラメルが好きだとキャラメルばかりつまむ彼に笑いながら私はチーズをつまんだ。
お互いの洋服を見た。彼は低身長の僕には絶対似合わないロングニットのワンピースを、僕は彼が絶対きない黄色やラベンダーの明るい色を選んだ。途中で娘とトイレに行った。その間彼はずっと娘を目で追っていた。
娘が眠りについた頃、こっそり彼が持ってきたswitchで、フードコートでスマブラをした。彼は強くて全然勝てなかったけれど、とても楽しかった。
フードコートを一周して、何がいい?と聞いたら二人で「牛タンがいい」「牛タン食べたいね」って。同時に言ってすくす笑った。
娘もご飯とサラダとみそ汁を食べた。



帰路に着くころ冬の空は真っ暗で、綺麗なイルミネーションと寒すぎる風の中、駅へ向かって僕らは歩いていた。余りの寒さに、僕はお気に入りのミルクティーを買った。
「僕さ、」 急に彼が切り出す。
「今日一日、全部娘ちゃんの面倒を見るつもりだったんだ。だから娘ちゃんのことずっと見てた。」
それを視線で感じていた僕は軽く頷いた。
「でも、思った以上に僕、何もできなくて。そちゃさんのしんどいの、代わってあげられなかった。ごめんね。」
唖然とした。彼は僕に取って代わって、娘といるのが辛い私のために面倒を見ようとすらしていたのだ。
「ちゃんとそちゃさん、お母さんできてるよ、思ってるよりずっと。」彼は言う。
「それは人の目があるからだよ」僕は素早く返す。「『お母さん』でいなきゃいけないじゃない。人の目があると。私は二人の時に怒鳴っちゃうし泣きわめいてしまうよ」

「…いいんじゃない?」
少し間を開けて彼が言う。
「え?」「だってさ、無理なことは無理だもん。そちゃさんは病気で、そういうことは起きてしまうんだから。」
あっけらかんと彼は言い放つ。
「でも」「今日楽しかった?」 間髪入れず、僕の言葉を遮るように彼は問うた。
「…楽しかったよ。」素直な言葉だった。朝からなんだかワクワクしている自分がいたのは事実だ。
「僕も楽しかった。娘ちゃんも楽しそうだった。」
「だから、それでいいんじゃない?そうやって強く言ってしまう日や、泣いてしまう日が沢山あったとして、」
彼は一息吸って、続ける。
「それでも、こうやって一日めーっちゃ楽しかった!って日があれば、そういうのって、意外と覚えてるものだよ。」
自分のことのように彼は言った。
(全然フォローになってないじゃん。)と心の中で私は思った。
でも彼の言いたいことはなんとなく伝わって、胸の中が温かくなった。お気に入りのミルクティーなんかよりずっとずっと温かい。今日何度目かわからないけれど私は泣いた。濡れた頬を夜風が冷やしたけれど、なんにも堪えなかった。



そして彼は最後に「クリスマスプレゼント」をくれた。
僕が気になってちらちらとみていた星と月のイヤリングだった。欲しいものがあるから待ってて、といったのはこれだったか、やられた。
なんだお前、完璧かよ。僕は少し笑ってしまった。

駅で少しだけ時間を貰って、彼の手に絵を描いた。
まるで湧き水のようにするするとイメージがあふれた。
それはとても幸せな絵ではなかったけれど、彼に向けてきちんと一つの作品として描けた。最後まで。

そして、(こればかりは相手のことだからわからないが)その青緑の手を見て思うことがあったのか、彼の死も「どうせ俺なんか」も、薄く薄くなっていった。



僕は完璧な母親ではないのだろう。これまでもこれからも。
それでも、僕も娘も楽しんでいける日があるのだろう。
そんな日々を、大事に、少しずつ増やしていければいい。
口下手な彼の言葉を勝手に解釈したそれを、僕は留めながら今日も娘を叱って、泣いて、笑っている。


今も夜ゲームにあけ暮れ…明ける中、彼はたまに連絡をくれる。
そしてたまに僕の元へきて、落ち込む僕に「別にいいじゃん」とブランコをゆらし、鉄棒で回り、ジャングルジムを駆けあがり、笑う。
「服汚れるよ」「別にいいじゃん?」そう言って公園で娘と遊んで、帰っていく。
独りぼっちで娘を抱えて泣きわめく僕を、「別にいいじゃん」を体現しながら母親に近づけてくれた彼のことを、僕は自分の人生でかけがえのない、今はまだ唯一の、誇れるものだと思う。



面と向かってなんてこそばゆいことはできないのだ。
「君が大事」だとか口が裂けても言えない天邪鬼な僕が

「ありがとう」 をこめて君へ。

精神病持ちの邦楽好きでゲーム好き。健忘有り。 文章を丁寧に書くよりもその場で思ったことを勢いで書いていきます。 主に音楽、ゲーム、日常(疾病)についてです。