見出し画像

「さん」付けで呼んでもいいのかあ?

上の写真は秋の題目で載せたほうがいいような気がするけど、この果物は全部ウチの庭で穫れたものです。レモン、ザクロ、柿、リンゴ、みかんです。今年は柿の収穫が悪くて、ザクロがいっぱい穫れて、レモンは年中穫れてみかんは日本のみかんとは違ってタンジリンというやつに近い味です。でもジュースは美味しいです。ザクロは英語でポモグラネットPomegranatesといいます。抗酸化作用が強くて買うと高いんだけど、中身を取るのがちょっと大変。赤い実を取り出すのに、真っ赤なジュースが飛び散って、まわりから壁から、自分の顔にまで赤いジュースが飛びかかって、まるで殺人をした後みたい(やったことないけど)な状況になるんです。でもジュースがおいしいから黒い運動着を着てえい、やあという気合いでやります。近所のインド系でケニアから来たシェリーが上手なやり方を教えてくれるって言っているんだけど、忙しくてまだ聞いていない。ラグナビーチに住んでいる友達は庭に出て食べると言っていました。その友だちの家の庭は目の前に一面海が広がっている家です。その美しさを前にすると赤いジュースが飛び散ろうが、顔にかかろうが幸せな気分だろうなと思った。私も外で今度は処置をやろうと思っている。来週から再来週にかけて大胆なポモグラネット大作戦を行うつもりです。

さて「さん」付けで呼んでもいいのかなあって思ったのは先回「林さん」に感謝する文章を書いた時に感じたことです。「林さん」のエッセイーで(きちんと覚えてなくてすみません)全然知り合いじゃないのに、知ってるような言い方をする人の事を読んだ時にもそうだなと思ったことですが、一度「林さん」の店に行ったことがあるからと言って、「林さん」と呼ぶのは失礼かな?「バール・ボサのオーナーさん」というのも変。エッセー等で出されているのは「林さん」というお名前で出されているわけだし、一回お店に行っただけで、「林さん」が私を覚えてもいないだろうし。

「○○さん」というのは「さま」から出来た撥音便なんだそうです。ちょっと勉強しました。[sama]→[san]は割と起こりやすいassimilationサウンド同化です。[ma]は口をきちんと閉じなければいけないから、だんだん[a]が曖昧になってきて鼻音化して[san]になったんだろうなあと思いました。私は少し言語学を勉強しましたから。「たすけてくれてありがとう」でも書いたんですが、日本語は2人称関係を大変重要視する言語なんですね。人間を人の間でとらえるように、2人称関係から外へ発展していく関係性なんです。ですから「林さん」というと単なる丁寧語の「さん」と2人称関係の「林さん」とがごっちゃになってしまうんでしょうね。「林さん」ごめんなさい!村上春樹という名前は文豪の巨匠という一般名詞化しているので呼び捨てでも大丈夫なんでしょうね。「村上さん」なんかって読んだら皆さんぎょっとしますよね。村上春樹のエッセイーでも村上龍については呼び捨てで、吉行淳之介に対しては敬意を払って「吉行さん」と呼んでいます。きっと村上龍とは仲が良くて近い関係なんでしょうね。英語はまあありませんが、一度スティーブ・ジョブスをスティーブンと呼んだら(スティーブンと呼ぶ知り合いがいるので、間違えて)知り合いみたいで変だよとアメリカ人に直されました。英語という言語は3人称関係で成立している言語だと思います。やはり基本的にキリスト教の影響が強いので。ユダヤ教もイスラム教も根本的には同じだと思いますが。神という対象に対してすべての人間が存在するわけですから、神を前にしてはすべての人間が3人称的関係、彼と彼女になるわけです。その次に2人称関係があるのではないでしょうか。人間の平等感も民主主義的な考えも3人称関係をベースとしていますので。アメリカに長くいると、日本の2人称関係に対する感度が落ちてくるんですね。日本的には失礼なやつになるわけです。ですから「林さん」と知り合いなわけじゃないんですが、敬意を込めて、でもある意味で対等なる人間関係として「林さん」と呼ばせて頂きました。「林先生」というのも出版関係ではあるのかなあ?

次回またお店に伺うのを楽しみにしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?