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ロング・グッドバイ

実は忙しいんですけど、ぎっくり腰になってしまって動けなかったんです。友達が神様がくれたお休みだから、何もしないで寝てること!というので、ただ寝て本を読んでいました。その中の一冊がレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」。前から読んでみたいと思っていて、なかなか時間が取れなかったもの。なぜ読みたかったかというと、村上春樹が大好きな本3冊であげていた本だから。もう2冊は「華麗なるギャツビー」と「カラマゾフの兄弟」。

村上春樹がすでに書いているように、「ロング・グッドバイ」のレイモンド・チャンドラーと「華麗なるギャツビー」のスコット・フィッツジェラルドも同世代の人で、「華麗なるギャツビー」はレイモンド・チャンドラーの好きな本でかなりフィッツジェラルドを意識していただろうということ。どちらも貧富の差とアメリカにおける階級差を織り込んでいるし、ロマンス・ストーリーだということ。どちらも一人の重要な語り部がいるということ。そしてその語り部がカッコイイということ。ロマンスという点では、愛する男が愛する女のために罪をかぶろうとします。それが本当に切ない!「ロング・グッドバイ」を読んで『恋愛』がぐっと胸に刺さった。人が人を好きになるって何?

人が人を好きになるって、明確に説明できないんですよね。そして好きになるタイプはいつも似ているそう。二村ヒトシさんなんかは、心の穴で説明しているけど。人はみな、親に心に穴を空けられていて、その満たされない穴を埋めようと人を好きになる。人を好きになるって、もろもろの感情の集合体。いっしょに映画を観たい、いっしょに食事をしたい、いっしょにセックスしたい、いっしょに旅行したいって思わせる感情。普段自分を守っている鎧を一枚一枚とりはらっていって、極限まで裸になれる情動。自己幻想。Illusion(イルージョン-錯覚)そしてDelusion(デル―ジョン‐妄想)。自我の壮絶なる戦い。

「華麗なるギャツビー」ではギャッツビーがディズィーをこれでもかというくらい追い求めます。ギャッツビーには時の隔たりが全くない。ディズィーは遠い昔に愛した人のままなんです。ギャッツビーの中では時を越えて二人は永遠なんです。ディズィーはそこに生きることはできないとわかっているけど。だから哀しいし、だからこそギャッツビーの純粋な思いは人々の心を打つ。

「ロング・グッドバイ」は探偵物ですが、その骨子に同じような純粋なる恋愛がある。アイリーンとポールは若くして愛し合って結婚しますが、戦争で引きさかれてしまう。それから何年も経って再会した時には、お互い別の人と結婚していて、ポールは戦争の悲惨な体験によって身も心も病んでいる。
もはやその姿も別人と化している。その時の隔たりの悲惨さをアイリーンは受け入れることができない。あまりにも純粋にポールに恋して、そして愛していたから。さらに現実を共にする夫も他の不倫相手がいる。しかもその相手はポールの奥さんときている。アイリーンはその悲惨な現実をずるく生きていくことができなかった。あまりにも純粋で自己崩壊せずにいるには、現実のEvil(イーブル-悪)を抹殺せざるを得ない。

人は一生に何人の人に恋して、愛することができるのだろうか?婚活とかしている人は別として、短い一生に恋愛できる相手は一人か二人、もしかしたら誰にも出会えないかもしれない。だから、会いたい。だから恋愛したい。たとえ少女趣味と言われてもね。

あなたはそんな人が心の中に一人でもいますか?

あくまでもこれは私の感想です!

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