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Three Stories

三つの物語とは、ヴォカッチョのリザベラ(英語ではリザベッタ)の話、ワイルドのサロメ、そして旧約聖書のユディド(英語ではジュディス)の話です。この三つの話に共通しているのは、男の人の首を斬ったという点です。ヴォカッチョのイザベラは好きな男の人との逢引きを兄に見られて、兄はその男を殺してしまいます。殺された男ロレンゾは幽霊となってリザベラに殺されたことを知らせます。リザベラはその死体を掘り出して、首を斬って持ち帰り、鉢の中に隠しておくという話。ワイルドのサロメは好きになった男の人に振られて、王の前で踊る褒美にその男の首がほしいという話です。旧約聖書のユディドは未亡人ですが、信仰心が篤く、敵方の司令官のもとに自ら赴いて、その首をとるという話です。

女の人が男の人の首を斬るなんて大変ですよね。本当にやったかどうかは別問題として、誰かがそのイメージに魅かれたということです。サロメとユディトはもともと旧約聖書のお話で宗教上の信仰のために残されたお話です。でもユディットの方は今では聖書に載っていないという話。クリムトの絵の方が有名かな。サロメも旧約聖書では短い物語ですが、オスカー・ワイルドが戯曲にして有名になりました。これもビアズリーの絵で有名です。皿の上にのったヨカナーンの首を持つサロメは印象的です。サロメの絵もユディトの絵もなんか官能的で情念的で退廃的です。首を斬るんですから、グロテスクと言えばグロテスク、病的?と言えば病的?です。

ユディトの話は民衆のために自分を犠牲にしてホロフェルネス(敵の司令官)を倒して(首を取って)ユダヤ軍はアッシリア軍に勝つ機会をつくったという話で、女性のシンボリックな英雄の話です。ユディトは宗教的で身の固い女性だったので全然官能的でも情念的でも退廃的でもありません。サロメは自分の踊りの代償として、自分を振ったヨカナーンの首をヘロデ王に要求したので(一説にはヘロデの妻が要求したという話もある)、自分で首を斬ったわけではありません。それでも、サロメには官能的で情念的で退廃的なイメージが強くあります。

一方リザベラは若い女の子で官能的でも情念的でも退廃的でもなく、好きな恋人が殺されて、ただただ泣きぬれて死んでしまう話です。夢にたった恋人のロレンゾの死体を探して首を斬って持ち帰り、マジョラムとバジルの鉢に入れて隠す。そして自分の涙でそのマジョラムとバジルを育てるが、兄弟にみつかって取り上げられてしまい、結局自分も死んでしまうという恋愛物語です。ジョン・キーツがイザベラの話を詩にしています。

これらの三つのお話から私が感じる印象は、ただただ男性的であるということです。男の感性と視線で創られているような気がします。ユディトの話はグレイトマザーを思わせる。父性原理に基づくキリスト教では後に否定されて削除されるのも頷ける。一方サロメは非日常空間における肉体性、娼婦的な世界を思わせる。と同時に首を斬られたヨカナーンは、魅力的な女性の誘惑に打ち勝つのですから、肉欲を超えた精神性の極みの象徴と考えられる。

さてイザベラの話ですが、デカメロンが書かれた14世紀、ルネッサンスの時代はキリスト教の力が弱まって、神が力を失った時代でした。その代わりに、男女の愛に宗教性を求め始めた時代、すなわちロマンチック・ラブの始まりでした。イザベラの恋人、ロレンゾはその身分の低さでイザベラの相手として否定され、殺され、イザベラはロレンゾの首を埋めた鉢を抱きしめて、涙で濡らし、結局それも奪われて死んでいく。愛のために死んでしまうのです。二人ともこの世では結ばれない。この悲恋の物語は、その後に出てくるシェークスピアの「ロミオをジュリエット」へと続く、ロマンチックラブ時代の幕開けと悲劇を象徴していると感じられるのです。

最後にボカッチョ、「デカメロン」のイザベラは恋人のロレンゾと性的な関係を持っていました。それがシェークスピアの「ロミオをジュリエット」ではそれが薄められている。この点を次回もう少し考えてみたいと思います。


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