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弱さから始める仕事

新年度が始まった。

体調を崩したりはしたけれど、ひとまず、この一年間頑張った自分をほめたい。こんな私を柔軟に受け入れてくれた職場には本当に感謝している。その上で、やっぱり無視できない感覚を書き留めておきたいと思う。

自分事にできません

うすうす気づいてはいたけれど、今の仕事に対してモチベーションを保つことが難しくなってきている。

会社のやっていることには価値を感じるし、考え方にもある程度共感しているつもりだ。体はしんどいこともあるけれど、労働環境としては申し分ない。最若手の私は、そそっかしくて叱られることもあるが、営業ではそこそこ成果を上げているし、社長曰く「職場を明るくする」存在であるらしい。

でも、でもね。愛想笑いしながら出版の交渉をしているとき、真面目な顔して書店に営業をしているとき、自社の本をほめる言葉に「ありがとうございます」と言うとき、ふと思ってしまうのだ。

なんで私はこの人に本を出させようとしているのだろう?

なんで私はこの本を売らなくちゃならないのだろう?

私は何のために、ここで働いているのだろう?

こんなことを考えるのは、大人げないのか青いのか。自分の気持ちはおいといて、やるべきことをやるのが社会人なのか。どうやって、会社のことと自分のことに折り合いをつければいいのか。

私はどうもそのへんが不器用だ。この一年、会社にとっての利益を自分の喜びに、会社にとっての損を自分の悲しみとしよう、と思い、実際そういうふうに振る舞ってきた。でも、会社のことはどうやっても、自分にとっては異物でしかなかった。なんというか、自分の中から出ていない動機で動くことに、無理が出てきた。その異物感は小さくなるどころか、働けば働くほど大きくなって、しまいには私の頭も体も動かなくしてしまう。

この違和感は、何か間違っているのだろうか。疲れた頭でぼんやり考える。

たぶん今の私に必要なのは、「会社に貢献すること」ではなくて「社会に貢献すること」だ。そこには少なからず「他人から評価されたい」という気持ちも含まれている。だって褒められたいし、誰かにとっての自分の価値を知りたいから。でも、会社の中だけで評価されたいのではない、そんな手っ取り早い「役に立ってる感」ではない。私がこの社会でやっていく意味のあること、もっと遠くの誰かに手を伸ばすこと。

まあでも「何のために働くの?」と聞かれて、「会社のため」と答える人はそんなにいないだろう。単純に「お金のため」とか「人から評価されるため」とか、もっと志高く「新しい○○を広めるため」とか「○○の発展に貢献するため」とか言う人もいるかもしれない。自分の生活のために始めたことが、いつのまにか誰かの役に立っていたり、誰かのために始めたことが、結果として自分のためになっていたりすることもあるだろう。そうやって人は自分と社会とをつないでいくのだと思う。

私は、動機が自分の中にあって、目的が自分以外の誰かにあることをしたい。会社はそのための「場」であって、「動機」や「目的」にはならない。

弱さの側に立つ

話が飛ぶようだけれど、前にも書いた弱さということが、これからの私のキーワードになってくるような気がしている。

病気になってから、社会の中で何らかの「生きづらさ」を抱えている人のことが、以前よりもよく見えるようになった。

お年寄り、子ども、身体が不自由な人、障害を持った人、コミュニケーションがうまく取れない人、心が弱りやすい人……etc。自分がその立場にならないと見えない人がいることにも気が付いた。不思議なことに、子どものときは子どもが、大学生のときは大学生が、社会人になったら外回りの営業マンが、よく目に留まる。きっとお母さんになったら、子連れの人の世界が見えるようになるのだろう。

そんなふうなので、自分の弱さを自覚してからは、弱い人がよく見える。

思えば、大学~大学院で研究してきた演劇は、そういった弱者の生き様や、彼らを生み出してしまう社会の構造を描き出すようなものが多かった。私は演劇のそういうところに深く共鳴していたのだった。

そのことを不意に思い出したのは、私の卒業した学部の先生が、卒業式で話したというメッセージを読んだからだ。少し長いけれど、引用したい。

確かにみなさんも私たちも、そうした世間や組織の論理に従わなければ生きていくことはできません。しかし同時にそんな世間の人びとも、現在の社会のありようとは異なった社会のありようを自由に想像してみる機会がなければ、きっと息苦しくて窒息してしまうに違いないのです。例えばですが、アニメーションの世界で展開される、動物たちが重力に抗って飛んだり跳ねたり膨らんだり縮んだりする自由自在な世界は、冗談でなくこの世界の希望なのです。だからみなさんがこの論系で学んでこられたことは、世間の人びとが蔑んできた人間の自由な表現に、それ独自の価値を見出すことだったのだと思います。その想像力の学習は、ただ自分の快楽や欲望を充足させるためだけのものではなく、世界中の弱い人たちへの想像力を鍛え上げるためのものであったはずだと私はかたくなに信じております。(中略)いささか図々しいお願いですが、私としてはみなさんに、そのような弱者の世界に、積極的に自分の魂を住まわせてほしいと思うのです。

→参考までに全文はコチラ。

ここで長谷正人先生が言うように、「弱者の世界に自分の魂を住まわせる」ことこそが「想像力」であり、この世の生きづらさに抗うための「希望」なのだということが、卒業してからようやく身に染みてきた。

病気になって、私は自分の中に「弱さ」を発見した。社会人になっても、病気とは違う形での「生きづらさ」があり、なんともこの世は息苦しい。でもそれはきっと、私だけでなく、同じように、あるいは違った形で「弱さ」や「生きづらさ」を抱える人にとっての「希望」に変換していけると信じている。

私は願わくば、自分の弱さも誰かの生きづらさも、希望に変えていきたい。それが、自分と社会のためにできる「仕事」かもしれないと思うのだ。





毒にも薬にもならない文章ですが、漢方薬くらいにはなればと思っています。少しでも心に響いたら。