ありがとう、永遠のヒーロー。~石川雄洋さん引退に添えて~

ども。そぼろです。

今回の記事は、元横浜DeNAベイスターズ石川雄洋さんの引退に向けた感情だったり今までの気持ちを書きなぐったものになります。

久々の投稿になりますが、これだけは残しておきたいことだったのでまた長々と書いていきます。感傷に浸りながら、ちょっとエッセイ風に。
読みにくかったらごめんなさい。オタクの一人語りということで多めに見てください。

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はじめに

2021年6月5日、土曜日。曇り空だった午前とは変わって、陽射しが照り付ける横浜スタジアムに、半ば衝動的に向かった。

この日は交流戦で千葉ロッテとの対戦。試合前イベントもあったが、何てことない2021シーズンの一戦だ。
しかし、我々ベイスターズファンにはこの試合を見届ける別の理由があった。

石川雄洋さんの引退セレモニー。

シーズン中に行われることが異例ともいえるが、それはまた後で述べよう。何はともあれ、卒業式のようなもんだ…なんて言えたらよかったんだけどね。

ここで、時計の針を15年くらい前に戻してみよう。

ある少年の、ベイスターズとの出会い

話は逸れるが、僕がベイスターズと出会ったのは2006年のこと。野球好きの父親(ファイターズファン)に連れられ、ファーム開幕戦を追浜へ見に行ったのは今も覚えている。しかし、そこに52番がいたかと問われても、正直に申し上げると記憶はない。彼はこの年の最後に一軍デビューしたので、きっと開幕は追浜にいたのだろう。

同年、今度は交流戦で横浜スタジアムへ行った。ファイターズファンの父親には申し訳なかったが、ハマスタのYライトに照らされたベイスターズのユニフォームがとてもかっこよく見えて一瞬で惚れた。

中でも「1番ショート石井琢朗」に強烈に惹かれた。当時ですでにベテランだったはずだが、とにかく眩く見えた。当時は佐伯も内川も村田も金城も相川もいた。みんなあのピンストライプで筆記体のBaystarsのユニフォームだった。そういや交流戦限定の変なユニフォームもあったっけ。
今や監督になった「番長」三浦大輔もまだまだエース格だった。あの年は門倉と土肥、中継ぎといえば「クワトロK」。誰に言われたわけでもなく、川村加藤木塚クルーンと諳んじられるようになっていた。こんな小学生、今考えたら恐ろしい。鈴木も…確か代打だったかな。

その鈴木が背番号を51に変えた(というよりは戻した)2007年、小学4年生になった時に親にねだってユニフォームと帽子を買ってもらった。村田と三浦のリストバンドも買ってもらったっけ。とにかく、このピンストライプに袖を通せたこと、βマークを頭に掲げられたことがとても嬉しかった。

しかし、まだ、””彼””の時代ではない。そして、一つ目の転機が訪れる。

「横浜」に惚れた少年が、「彼」に出会うまで。

2008年オフ、相川と石井と鈴木がチームを去った。とても寂しかったが、中でも石井琢朗の退団は本当にしんどかった。最初に好きになった選手との別れだからだ。三浦もFA宣言した。もしかしたら三浦もいなくなるのかもしれない…と思った。だから、残ってくれた時は心の底から感謝した。

失意にくれていたそぼろ少年だったが、石井退団の理由の一つは誰でもない「彼」をチームの中心に据えるためだった。となれば「彼」を気に掛けるのも必然の流れと言えよう。

2009年の横浜開港150周年に合わせてだったからか、「Yネック」が採用された。筆記体のロゴこそ残ったが背番号・背ネームのフォントは一新され、大好きだったピンストライプユニフォームとはお別れしなきゃいけなかった。実はこれ、結構しんどかったことだったりする。

その象徴と言える選手が内川や村田、そしてまだ52番を付けていた「彼」であった。

「彼」の名前は、石川雄洋。

奇しくも僕が大好きだった石井と同じ「石」の苗字で、右投げ左打ち。そうか、今後はこの人が横浜のショートか。正直に言えばまだ頼りなく映っていたし、当時はやっぱり内川村田が好きだった。

個人的に中学受験を控えた1年であったこともあり、2009年の記憶はほとんどない。晴れて中学生になった2010年、少しずつではあるが雄洋の名前が目につくようになり、意識し始めていた自分がいた。

激動の横浜、その中心に彼がいたこと

2010年オフ、まず内川があの移籍劇でホークスへ。この年スレッジ・ハーパー・カスティーヨと誇っていた助っ人トリオも、カスティーヨがロッテに移籍して解体。しかし、あのファイターズから森本稀哲がFAで来たオフでもある。

忘れもしない東日本大震災が起きた2011年、内藤の劇的なサヨナラタイムリーで幕開けしたはずがいつものように最下位を疾走。親会社のTBSが巨額の赤字(確か20億円以上だった気がする)を抱えていたために、シーズン終盤からベイスターズの身売りが取り沙汰されるようになった。

親会社の候補が出てきては今後どうするんだみたいなネガティブな話が付きまとう。正直嫌だった。僕が好きな横浜ベイスターズが消えそうだったのが嫌だった。DeNAが買収を決定したと聞いても、正直「モバゲー」の印象しか入ってこなかったし不安でしかなかった。モバゲーベイスターズなんてまっぴらごめんだ。

そんな「横浜ベイスターズ」として最後の試合だった東京ドームの巨人戦、2010年から背番号7を付けた「彼」のミスをきっかけにド派手なサヨナラを決められて歴史に幕を閉じた。あまりにも弱すぎるベイスターズらしい終戦だった。その象徴に、彼は祀り上げられていた。今もネタにされがちだが、正直あまり思い出したくはない。

2011年11月1日、「横浜DeNAベイスターズ」が発足。真っ当な形に落ち着いたとはいえ、不安は尽きなかった。新チームなんだろうけど、その印象がない。一体何が変わるんだろう。ネガティブな感情に支配されていた。

「継承と革新」の下に、チームロゴやユニフォームも一新された。青いピンストライプが復活したのはとても嬉しかったが、あの筆記体はもう帰ってこない。嫌でも新体制を意識付けられた。

監督も、やたらとテンションの高い中畑清が就任することになった。今回は期待してもいいんかな、でも今まで通りシーズン中に休養とかなるんかな…不安は尽きない。そんだけ今までが弱すぎたもの。

そんな新チームでキャプテンに指名されたのが、いつの間にか背番号7が似合うようになっていた彼だった。

そうか。あの石川が本当にチームの中心になるんだ。

少しだけ、本当に少しだけだけど希望が持てた気がした。まだこのチームは死んではいない。石川雄洋が、ベイスターズを変えていくんだ。どこからともなく、そんな感情が沸き上がってきた。

キャプテン・石川

それからは雄洋を追っていた。凡退すれば悔しかったし、塁に出れば嬉しかった。バントも上手かった。それ以上に、とにかく粘っていた印象だ。チームの勝利に向かって全身全霊をかけていたように見えた。文字通り身を削っていたようにも見えた。
ヘッドスライディングもたくさんした。サヨナラのチャンスで10球以上粘って内野安打を放った。骨が折れていても打席に立った。そんな泥臭さと熱さがとてもかっこよく見えた。

この年も交流戦で横浜スタジアムに行った。ファイターズに在籍したことのある林が登板すれば親も懐かしがっていた。そして、その試合は確か負けた気がする。やはり弱い…分かっていても、そう言われるとやっぱり悔しかった。

セカンド石川、ショート梶谷。このコンビがDeNA始まってからの二遊間だった。もうね、見てるだけで不安よ。でもこれが横浜。そうと決まれば応援するしかない。
確か二人ともかなりヤジられていた記憶がある。そんだけ期待されていた…というよりはこの二人が主力にならなきゃいけなかったのかな。とか当時は思ってたり。

DeNA初年度も終わってみればダントツの最下位。ノリのサヨナラ打とかあったけど面白かった記憶はほとんどない。そしてその年、広島に移籍していた石井琢朗が現役引退を表明した。
僕にとって最初のヒーローだった選手の引退。しかも、最後の最後に横浜スタジアムでその姿が見られるならば絶対立ち合いたいと思い、親に頼んでシーズン最終戦のチケットを取ってもらった。一塁側で筆記体ロゴのピンストライプを着て、琢朗の最後を見届けた。やっぱり寂しかったけど、現地で見届けられて区切りがついた。ありがとう石井琢朗。

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(2012年10月8日 @横浜スタジアム)

2012年シーズンで、なんだかんだ言ってもDeNAベイスターズにもやっと慣れてきた。その最終戦セレモニーで流れたシーズン振り返り動画のBGMが、Mr.Childrenの「終わりなき旅」だった。始まったばかりのDeNAベイスターズ、すぐには終わらないだろう……そんな風にも思った。ただ、言葉に表せないところで「何かが変わった」と思った。

きっと雄洋がその先頭にいたんだろうな。番長・ラミちゃん(ラミレス)・ノリ(中村紀洋)・金城・稀哲・直人さん(渡辺直人)…そんなベテランに支えられながら、不器用ながらも背中で引っ張っていったんだろうな。度々ニュースに上がっていたが、あのキヨシとかなりぶつかっていたんだろう。そんだけ熱い男なんだ、きっとそうだ。

このオフ、ソト・ソーサ・ブランコを中日から獲得し、吉村を出して多村仁志をトレードで獲得。2013年は本気で勝ちに行くシーズンになるんだな、と信じてみた。

そして、2013年は登場曲に「終わりなき旅」をチョイス。石川雄洋と言えばこの曲と言っても過言ではない。

ただ、この年序盤の雄洋は見てられなくなるくらい悪かった。ふてくされてキヨシに雷を落とされ二軍降格。そんなんで落とされるキャプテンってなんだよって本気で思った。ファンとしてめっちゃ悔しかった。だから、帰ってきてからの復活ぶりはとても嬉しかったのを今も覚えている。

この年から始まったスペシャルユニフォームを着ての「横浜スターナイト」。カードで全敗し、試合後のセレモニーでグッズが投げ込まれてしまったときの雄洋のコメントには、「やっぱりそうだよな。勝ちたいよ。めっちゃ悔しいわ」ってこっちも思った。やっぱり雄洋が先頭にいるんだ。

この年は一時3位に食い込む大健闘を見せ、最終的には5位フィニッシュだったが久しぶりに最下位を抜けた。あの横浜が最下位じゃない。それだけで嬉しかった自分もいた。
でも、同時に途中までは3位に入ってたチームだ。もしかしたらCSなんてのも夢じゃないと思ってたし、そこはとても悔しかった。

2014年、キューバの至宝グリエルが途中加入。その影響で、おそらくプロ入り初のセンターでの起用が続いていた気がする。センター石川…外野守備でも恐れず飛び込む姿勢は健在だった。それでこそ雄洋よ。

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(2014年9月10日 @横浜スタジアム)

ただ、3・4月が今季同様あまりに凄惨すぎて5月以降勝率5割をキープしたのにCS争いは追いかける側だったのが苦しいシーズンだったように思える。そういや井納の札幌でのプロ初完封とかもこのシーズンだっけ。

そして、2014年オフにキャプテンを筒香に禅譲。雄洋がキャプテンに就任してからの3年間の軌跡を思えば、筒香にキャプテンを渡すには絶好のタイミングだったかもしれない。ただ、石川のCマークが見られなくなるのはやはり寂しかった。
それでも、地元横浜高からドラ1指名を受け、常に球団の看板選手になると期待され続けたのに伸び悩み、キヨシに喝を入れられてからやっと主力として定着してきた4番が、雄洋と同様にキャプテンに就任することでもっと成長するかもしれない。本当に日本代表になるかもしれない。そう思うと、その筒香が見てきた背中の大きさを、石川雄洋という選手がDeNAにもたらした変革の功績を改めて実感できた。
キャプテンを務めた3年間、叩かれまくったし上手くいかないことばかりだったけど先頭に立ち続けてチームを鼓舞してきた、そんな雄洋のファンで本当によかった。

キャプテンからチームの精神的支柱へ

かくして2015年、当時高校3年生の自分は2度ハマスタを訪れている。おい受験生…「1番セカンド石川雄洋」ももはや横浜の名物となった。ポジションは違えどかつての石井琢朗に通じるものがある、そう本気で思っていた。

2015年といえば前半戦に絶好調で単独首位に立っていた時期もあった。その先頭には、やっぱり雄洋がいた。第一打席に出塁した試合は負けないという「石川くじ」なるものまで登場。あの雄洋の名前がニュースで読み上げられるたびに嬉しくなった。

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(2015年4月22日 @横浜スタジアム)

しかし…後半戦は地獄のような負けっぷり。それに呼応するかのように雄洋も成績を落としていった。地力がないと言ってしまえばそれまで。真に強いチームではまだなかったのも事実。
ただ、正直に言えば、受験が近づく自分の楽しみだったベイスターズの負けっぷりはとてもつらかったし雄洋の姿も見れなかったのはしんどかった。

そして2016年。キヨシが去りラミちゃんが監督になった。

個人的には、ベイスターズが好きだからって理由で第一志望にしていた某国立大に落ち、予備校生という名の無職期間に突入した。そんな中でもやはりベイスターズが心の支えだったし、雄洋の活躍が当時数少ない心の栄養だった。高校でバイトが出来なかったためにこの年に初めて貯金してきたお小遣いで雄洋のユニフォームを買った。安くない買い物だったが、宝物を手に入れられた喜びが勝っていた。

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(2016年4月20日 @横浜スタジアム)

しかし…2016年の雄洋はかなり成績が悪く、あることないこと色々含め各所で叩かれに叩かれていた。やる気がないだの見た目がナメているだの出場枠をつぶすだけだの…見たくないコメントがSNSを駈け廻る。それでも、僕には雄洋しかいなかった。あの雄洋が、今まで熱く立ち上がってきたチームの先頭にい続けた雄洋がそんなはずはない。そう信じるしかなかった。

2016年と言えば、主砲筒香が覚醒し投手陣もエース山口を中心に奮起、守護神山﨑が打ち込まれながらも懸命にセーブを重ね、チーム初のCS出場を決めたシーズンだ。9月19日、オープンキャンパス帰りのバスの車内で出場決定を知った時は嬉しさで泣いた。やっと…Aクラスになれた…。その翌日に番長・三浦の引退会見。そりゃ泣くよ。横浜の街の中で大泣きした。

番長の引退試合に雄洋が出場しなかったのはとても悲しかったが、当時のセカンドと言えば途中加入のエリアンだったから仕方ない。あのエリアンのバックホームは今も語り継がれるべきだと思っている。その後CSで見せた巨人との死闘、そして広島でのセカンド起用。0-3で唯一勝った試合に見せた気迫のファールフライキャッチは今思い出しても震える。怪我してでもアウトを取りに行く姿勢こそ石川雄洋なのだ。それをシーズンの最後に見せてくれたことで、この一年も雄洋を応援して本当によかったと思わせてくれた。それと同時に今まで叩いてきた人たちへ向けて「どうだ!これが雄洋だ!!」と誇らしくも思えた。

そんな石川もやはり世代交代の波に呑まれ、いつしかベンチスタートが増えていた。ベイスターズは大好きだけど、石川のいないベイスターズは寂しい。そんなことを思う日も増えていった。

You're my Hero.

2017年は多分ベイスターズファンとして一番楽しかった年だと思う。2年連続でCSに出て、リーグ覇者の広島にリベンジを果たし、19年ぶりに日本シリーズに出られたのだから。
しかし、雄洋の出場機会は多くはなかった。このあたりから引退の二文字がよぎり始める。

2018年、久々にAクラスを逃したシーズンだった。夏まで雄洋は上がってこず、前年の成功体験もあったからなのかミスが重なってチーム成績も振るわなかった。このオフに、かつてゴールデングラブ賞を獲った荒波や代打の切り札だった後藤が抜け、雄洋がチーム日本人最年長野手となった。でも、まだ32歳。老け込むような歳じゃない。まだやってくれる…空元気に似た無理やりなポジ姿勢を貫きたかった。

そして2019年。球団創設70年目の節目に4月で10連敗を喫する。弱すぎる…2014年の嫌な記憶がチラつく。しかし、それを振り払ってくれたのが他の誰でもない雄洋だった。

2019年4月29日。一軍昇格当日、第1号勝ち越しツーランホームラン。

きっと雄洋が変えてくれる。そう願ったその日に、最高の結果で応えて見せた。あまりにもカッコよすぎた。これが本当のヒーローなんだ。僕が信じ続けてきたのは、そんな人だった。

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(2019年4月29日のTwitterトレンド画面)

そしてこの年、雄洋は偉大な記録を達成した。

史上301人目の通算1000本安打。

我々が愛した雄洋が球史に名を刻んだ瞬間は、三塁へ雄洋の代名詞ともいえるヘッドスライディングをした直後だった。何とも雄洋らしい1000本目だろう。今までの軌跡を思い、試合中であったが涙した。このヒットが次の嶺井のタイムリーを生み、チームの勝利に大きく貢献したという点でもやはり雄洋らしい一打だったのだ。試合後のヒーローインタビューがあんなに和やかだったのは、雄洋がどれだけ愛されているかを物語っているようだった。その光景がほほえましく、そして感動的だった。

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(2019年8月4日 ヒーローインタビューのキャプション)

余談だが、1000本安打記念Tシャツは発売開始と同時に予約した。

しかし、思えばそれが最後の輝きだったのかもしれない。それ以降出場機会に恵まれず、10年背負った7番を下ろし新たな背番号42を付けた2020年シーズンはキャンプこそ二軍スタートだったがオープン戦で一軍昇格が予定されていた…のに今の感染症のせいでそれが白紙となり、待てど暮らせど昇格の声がかからない。若いチームには雄洋が必要なんだ、そうファンは思っても現実は厳しかった。

2020年10月24日、午前2時。その知らせが、紙面になる前に届いた。

『【DeNA】石川雄洋、退団へ ベイ一筋16年 34歳日本人野手最年長 現役続行目指す』(スポーツ報知)

信じたくなかった。受け入れたくなかった。なんで?なんで今?そんな思いに潰されそうになった。

円満だろうが双方納得した上であろうが、こんな形でヒーローが最後を迎えなきゃいけなかったことが許せなかった。でも、これがプロの世界のお話。我々にはどうすることもできない。それもまた悔しかった。

最後まで一軍には呼ばれず、10月29日の横須賀での埼玉西武戦が横浜DeNAベイスターズとして最後の出場となった。ただ、現地には行けなかった。無料配信で試合を見ていたが、途中から出場し9回裏の同点劇、そして10回裏のサヨナラ劇を演出したフォアボールを選んでいた。ヒットでなくても粘って出塁してチームの勝利に貢献する。最後の最後まで我々の知る雄洋の姿はそこにあった。画面越しの輝きに感謝と惜別の涙を流した。

胴上げもされず静かにグラウンドを去った雄洋。その後現役を続ける意向を示し、「さすがに無理だろう」って言われてもオファーを信じ練習を続けた。その姿も、やはり泥臭くも前を向く雄洋だった。

最悪な世界になってしまった2020年も終わり、めでたくもない年越しを経て2021年になっても所属先が見つからない。前年の鳥谷敬選手(3月にロッテ加入)のようにキャンプ後に獲得へ動く球団があるかもしれない。そう信じていたが、やはりどこからも声がかからない…次第に忘れられていったのか、話題に挙げる人も減っていった。それでも最後まで信じようと誓った。

そして2021年3月21日。正式に現役引退を発表し、僕のヒーローは静かに球界を去った。その最後に見せた笑顔が、やり切ったという充実感を見せていたように思えた。横浜DeNAベイスターズとして10年目のシーズンが始まる直前のことだった。

だが、これで終わっていいわけがない。そう勝手な思いを抱いてもいた。
そして、それは叶った。

愛された泥んこヒーローの、本当に最後の姿。

2021年5月20日。試合前に引退セレモニーが予定されていたが、降り続く雨の影響で開始直前の17時に試合中止が決定。同時にセレモニーも中止。最後の姿を見ようと思っていたしその心持であったため、さすがにしんどかった。ただ、セレモニーは後日行われることとなり、後日その日程が発表され、6月5日の千葉ロッテ戦終了後となった。

これで最初に戻していた時計の針が現在に追いついた。

延期となったセレモニー当日、横浜スタジアム周辺は午前中曇っていたのがウソのように正午前に雲一つない晴天が広がった。

恥ずかしながら、実はこの日の試合のチケットは買えていなかったのである。当日球場に着いてからSNS上でチケットお譲り情報を探し、たまたまヒットしたものを定価で譲っていただいた。最後の最後に雄洋の姿を生で見たい。その思いだけだった。

14:00の試合開始から、初回は濵口がロッテ打線を三者凡退に抑える。その裏、1番センター桑原の第一打席。

「横浜ベイスターズ 勝利の輝き目指して」
「栄冠掴むその日まで 恐れず飛び込めベースへ 君の熱き血潮で 燃えろ 雄洋」

この美しい試合開始の流れを何度聴いてきたことか。「勝利の輝き」に一番似合う応援歌は、やっぱり雄洋なのだ。

その後も、5番宮﨑は登場曲を普段の「心絵」ではなく、雄洋が使っていたものに変更していた。ハマスタのスピーカーからprediaの「You're my Hero」が流れてきた時は感極まってしまった。もう聴けないと思っていた。2回にホームランを打ったソトも「タケさんのために打ちました」とコメントするなど、選手から次々と雄洋のことを思った発言が出て本当に嬉しかった。
一時は9点差もあった展開だったが終わってみれば相手の追い上げもあって2点差での勝利。勝てたからよかったけど…みたいな感じだった(苦笑)。

そして、ここからが本番。

ビジョンに「TAKE OFF, TAKEHIRO.」の文字が出てきた時、終わりの始まりを覚悟した。これが終わるとき、本当にお別れしなければならない__頭では分かっていても、その時だけは来ないでくれと本気で願っていた。それと同時に「石川雄洋氏」という表記に、すでに球団の人間ではないんだなという寂しさも去来した。

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(2021年6月5日 @横浜スタジアム)

セレモニー開始と共に割れんばかりの拍手の中で雄洋がスーツ姿で登場し、マウンド手前でビジョンを向いた。

続いてビジョンには関係者へのインタビューをまとめた引退ムービーの放映。ご両親へのインタビューから始まった人選が完璧すぎてね。そして、皆さまから出てくる言葉が今までの雄洋のすべてを表しており、感情が振り切れてしまってマスクの中で必死に堪えながら泣いてしまった。

そして、雄洋からの最後の言葉。「横浜で優勝したかった」。我々だってそうだ。横浜で優勝して、苦難の歴史の先頭を歩いてきた雄洋を胴上げしてほしかった。でも、それは想いを託した今のメンバーに叶えてもらおう。

周りへの感謝が溢れていたスピーチだった。そんな中でもところどころお茶目な部分も出ていて、とても雄洋らしい良いスピーチだったと思う。

スピーチが終わり、花束は雄洋の背番号7を継いだ佐野から贈呈された。DeNAの新たな歴史の始まりを告げるようなシーンに胸を打たれた。
そして、場内一周が始まった。それと同時に「終わりなき旅」が流れ始め、また応援団がリモートで雄洋の応援歌を演奏した。感情が訳分からなくなった。過呼吸を起こしかけたくらいには泣いた。それでも最後の姿は目に焼き付けたかったからグラウンドを見続けた。手を振り続けた。ただ、雄洋がライトスタンドを自分のスマホで撮影していたのには笑ってしまった。

雄洋の応援歌は惜別そのものであったが、その後ろに流れる「終わりなき旅」はまるで新しい旅立ちを讃える調べに聞こえた。あしたの歌だ。

この後、セレモニアルスイングと称した最後の打席が用意された。投手はキャプテン佐野、捕手は高城。それしかない人選。
そして、思いもしなかった奇跡が目の前で起きた。

Cマークの入った初代DeNAホームユニフォームの背番号7
が復活したのだ。

雄洋が一番チームに変革をもたらした、あの苦しくも輝かしい時代のユニフォームが最後の最後に復活したのだ。もう何が起きたのか分からない。でも、最後にベイスターズのユニフォームを着た石川雄洋を拝めた。それだけでいい。それでいい。

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そしてベイスターズの面々とのあいさつを終え、雄洋はグラウンドから去った。この瞬間が本当の最後の別れだった。

終わってしまった、そんな気持ちと同時に別の思いもこみ上げた。

ありがとう、永遠のヒーロー。

気持ちに一つの大きな区切りがついた。流す涙のストックもなくなって、今日この場にいられたことを誇りに前を向いて歩いて行こうと思えた瞬間だった。

思えば、昨年11月に退団してから半年経って夏の手前にこうやって再び姿を見られた、横浜の旗の下で見送れたってだけでも幸せだったなって。

終わりに

駄文乱文で読みにくかったですよね、ごめんなさい。そしてまた1万文字を超えるクソデカお気持ち表明。

でも、これは何度も言ってきましたしまた言いますけど、石川雄洋さんという人間を引退まで応援出来たことは幸せですし一生の誇りです。

それと、野球に限らず他のスポーツやアイドル、バンド、声優、ゲーム…この世の色んなものはいつまでも続きません。ある日突然終わりが告げられる。明日が来る保証なんて本当はどこにもないんです。雄洋への戦力外通告、そして現役引退までの日々。それらが証明してくれています。

推しは推せるうちに推し通せ。

たとえ周りから叩かれていようが、自分がそれを好きでいる限り好きを発信し続けてほしい。

それに、球団の歴史だって今は紡がれていますが、いつ終わりが来るかもわからない。だからこそたとえ死ぬほど弱くたって、どんだけ負けが込んでいたって、どんだけフロントが失態を犯したって、采配ミスで勝てる試合を落としたって、擁護するわけじゃないですが次は勝てると信じて前を向くしかない。その姿勢を雄洋は見せてくれたんじゃないかなって思っています。

こんなに好きになった野球選手は多分雄洋が最初で最後かもしれないです。そんだけ影響を受けた一人です。今後はアメフトに舞台を移すそうですが、その先も応援していきたいなって思います。元気でいてくれると嬉しいなぁ…。

最後になりますが、16年間本当にお疲れ様でした!ずーっと大好きでした!石川雄洋””選手””、本当にありがとうございました!!!!

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