愛の偏りを抱えて生きる僕ら;映画「パレード」感想

友達が持ってきてくれた映画の中にパレードという映画があったので見てみた。
正直にいうと、少し作りの荒さが目立つ。普通は気づくでしょ、そうはしないでしょという場面がいくつかあるのでどうしても気になってしまう。ただ、僕もルームシェアを以前していたし、ちょうど、以前ルームシェアをしていた友人の家に泊まっていることもあり、共感できる部分がいくつかあったし、ラストシーンの終わらせ方はツッコミどころはあるものの、でも人間が日常生活の中で抱えている偏った愛情について触れていてとてもいいと思う。ラストシーンは「ヴィンランドサガ」の、王子が悟りを得るシーンにも通ずると思っている。一般的に言われている愛とは差別なのだ。つまり偏っている。誰かに肩入れしている。今回は殺人を犯していたルームメイトに肩入れしていた。部外者である僕らや、映画の中の他人にとっては、殺人を容認する彼らを擁護できるはずがない。だけど彼らにとっては違う。大切なルームメイトで、大切な日常の一部なのだ。だから守るし、一般的に悪とされている行為も日常を守るためなら容認する。なぜなら彼の犯した罪を彼ら自身が表に出してしまった瞬間にこの共同生活は終わりを迎えるからだ。当然いつか終わりが来ることも彼らにはわかっている。だけれども、今この瞬間を大事にしたいし、過ごした時間は大切な思い出だ。そこに泥を塗るような行為をしたくはないのだろう。そして彼ら自身、きっと人には言えない闇を抱えている。誰にも共感されない部分の闇を。そこを抱える彼らだからこそ、殺人を犯しているルームメイトの存在を容認できるのだろう。
どういう経緯で彼らが殺人を知ったのかはわからない。本当に把握しているのかすらも名言されていない。だけどラストシーンの描きかたから推察するに、彼らは殺人を把握していたと考えるのが妥当だろう。でも、知ってもなお一緒に共同生活をする。それって、とても信頼がないとできないことだと思う。普通は殺人犯と一緒にルームシェアができるはずない。自分の身にいつ危害が降りかかるかわからないからね。だけど彼らにはそういった焦燥感や不安は全くみられない。それは殺人を犯す彼に対する愛情があるからだ。

僕らの普段の生活でも、実は誰かに肩入れしている自分に気づく。そんなに親しくない人と、親しい友人とで接し方が同じであるわけがない。そしてそれが悪いのかいいのかもわからないし、そこを判断して明確に分ける必要もないと思う。ただただシンプルに、現実世界はこうなっていると把握しておく。それが大事なんだと思う。

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