スナオ作、「滅びゆくこの世界で」を読む

https://kakuyomu.jp/works/1177354055060127849

この作品での「地球の人間」は現代社会とその成員。それによく似た「エデンのヒューマノイド」は現代社会に馴染めなかった人々とその避難場所の隠喩だ。

そこに必然のように反出生主義が蔓延する。そうして、現代社会に似た息苦しいものが出来上がる。その中で不妊手術を受けたはずのリリスは身籠る。夫アダンは当然のように、リリスに中絶を迫る。

不妊手術は現代社会を否定する証明のようなものであり、避難場所にいるための許可でもある。避難場所にいたいなら、現代社会を否定することを要求される。リリスは現代社会を全て肯定することはできないが、全て否定することもできない。

現代社会は一つの価値観に支配されていたから息苦しかった。避難場所も今や一つの価値観に支配されつつある。アダンはその価値観の、一番身近な手先だ。リリスはアダンから逃げ出し、『誰も寄り付かない「死の森」』に辿り着く。

そこは他人から自由な、個人の内心を象徴している。そこでリリスはサタンに出会い、死に、その腹が切り裂かれてアダムが生まれる。

リリスはアダンから逃げ、サタンに出会ったことでアダムに生まれ変わった、と言える。社会からも夫からも自由な、新しい自己を作り直そうとした。

ここでリリスは、妻であること、女であること、大人であることを捨てて、少年になった。リリスは今までの価値観を一度全て捨て去ることにした。

サタンは地球の話をアダムに聞かせる。つまり、サタンは社会に馴染んだ経験がある。アダムはサタンの話に聞き入る。おそらく、アダンにはサタンのような話はできない。

その後、サタンは「死の森」の外の町で、アダンに見付かり逮捕され、アダンに処刑される。サタンとアダンは、エデンが一つの価値観に支配されようとするまでは、親友だった。

町の人々の様子からは、エデンではサタンは快く思われていなかったことが窺える。サタンを失ったアダムは、町の人間に存在を咎められ、酷い暴行を受ける。アダムを助けようとする者はいない。アダムはサタンに出会ったことを後悔しながら、絶望の中で気を失う。

アダムは少女イヴに助けられ、手当てを受けて目を覚ます。イヴはアダムにサタンと出会えたことの価値を思い起こさせ、アダムの絶望を鎮める。

イヴはアダムと同じく孤独な者だ。つまり、現代社会にも反現代社会にも馴染めない者同士だ。その二人は共同生活を始める。アダムはサタンから聞いた話をイヴに聞かせ、イヴはそれに聞き入る。二人は地球とエデンの違いについて話し合う。

時が経ち、大人になったアダムは、イヴとの間に子を儲けたい、と思うようになり、そうするべきか悩む。イヴはリリスと同じく不妊手術を、幼児の時に受けさせられている。しかし、アダムはサタンから不妊を無効化する薬を与えられている。

アダムは一人で悩んでも答えを出せない。アダムはイヴに悩みを打ち明け、イヴもアダムと同じ思いであることが判る。しかし、二人は監視されていたために、エデンの警察権力に捕まる。

イヴはアダムを逃がし、アダムは自分が生まれた場所である「死の森」に帰る。そこでアダムはサタンの声を聞き、反出生主義の"敵対者"(ヘブライ語でサタン)となることを決意する。

ここで重要なのは、サタンはアダムに、子を儲けろ、や、反出生主義に敵対しろ、などと一度も命じていないことだ。リリスに対しても、彼女の子への思いを引き取っただけだし、アダムに対しても、ただ話を聞かせるだけだ。

サタンは反出生主義には敵対していない。サタンが何かに敵対しているとすればそれは、現代社会にしろ反現代社会にしろ、個人を一つの価値観で支配しようとする力に対して、だ。

地球の聖書に書かれたサタンは、イヴを唆し、禁じられた知恵の樹の実を人間に食べさせた。その結果、人間は楽園を追放され、労働と生みの苦しみを背負うことになった。しかし、それは神の支配からの離脱である、とも言える。

神に盲従する生き方がよいのか。しかし、それは楽園と楽園の外とを知らなければ、判りようもない。神は当然、楽園にいればいい、と人間に言う。楽園の外のことなど知らなくてもいい、何も考えないほうがいい、と。

エデンのサタンはそれを信じない。エデンのサタンは地球のことを知っている。もちろん、エデンのこともだ。地球の外に別の価値観があり、エデンの外に別の価値観がある。そのことをサタンは擁護する。

サタンは、楽園から一人で「死の森」に逃げてきたリリスを援助し、「死の森」から一人で町に出てきたアダムを肯定する。

自分のいる楽園を疑い、楽園の外を知ろうとし、自分で考え、自分で自分の生き方を選択する。そう、個人ができることをサタンは擁護する。サタンは神亡き後の近代個人主義の擁護者としてある。

だからサタンは、アダムに楽園の外の話を聞かせ、不妊を無効化する薬を託す。自分で考えた末に、楽園の外へ出たい、と願った時、楽園の外への道を保証するためだ。

アダムは個人で反出生主義への抵抗活動を始めるが、迫害されるだけだ。しかし、イヴが合流すると、徐々に支持が集まり始める。地下に身を潜めていた、サタン支持者達もアダム達の活動に加わる。

エデンの価値観を良くないと思う人々は、いたのだ。そして、社会が一つの価値観に支配されることを良くない、と思う人々も。しかし、それを言い出しても迫害されるだけだ、と隠れていたのだろう。個人で社会に抵抗しても無力だ。

アダムとイヴが示してみせたのは、反出生主義への抵抗であると共に、社会の側として個人を抑圧するのでもなく、孤立した脆弱な個人として社会に盲従するのでもない、個人と個人が寄り添って家族を作り、家族の中の個人として社会に抵抗する姿勢だ。

アダムとイヴは、何よりも家族を信じる。家族であることの強靭さを信じる。家族こそが社会に抵抗し得、社会を変える、と信じる。

社会という楽園の、その外で生きていくことを決めたアダムとイヴは、カインとアベルを生んだ。社会に抵抗できるのが家族であり、家族が必要だったからだ。しかし、アダムとイヴは楽園からの追跡者に追い詰められる。追跡者とは、アダムの実父であるアダンのことだ。

アダンはアダムに、アダムの父親が自分であることを告知し、楽園に戻ることを要求する。しかしアダムは、サタンだけが自分の父親だ、とアダンを拒絶する。アダムとイヴはアダンの目の前で服薬し、自殺する。

その薬は、エデンで広く使われている、個人に安楽な死をもたらす薬だった。

アダムは血縁上の父アダンを否定し、思想上の父サタンを選んだ。家族は家族というだけで強いわけではない。血縁だけで結び付いた家族は弱いが、思想で結び付いた家族は強い。アダンとアダムの間には血縁だけしかない。

アダンは妻も親友も息子も失った。その誰とも、アダンは思想的結び付きを持てなかった。その悲しみと苦しみに「生まれてこなければよかった」とアダンは自分の生を嘆く。

カインとアベルは、アダムとイヴの後を継いで反出生主義に抵抗し続ける。抵抗側が劣勢でありながらも、戦いが長期化の様相を呈する中、反出生主義は敵対者を根絶するために、秘密裏に開発していた、ウィルス兵器の使用を決行する。

それは、全てのヒューマノイドに安楽な死をもたらすために研究されていたものだった。

そうしてエデンに、悲しみや苦しみを感じるものはいなくなり、物語は終わる。

この作品は、個人を縛る一つの価値観への抵抗と、その失敗を描いている。

サタンは地球の事情を知っている。知っているからこそ、地球ではなくエデンにいる。エデンにいることを選んだからこそ、サタンはエデンが地球化する事態を憂えている。

エデンの価値観に馴染めずに逃げてきたリリスに、同じく地球から逃げてきただろうサタンは同情し、アダムの誕生に手を貸す。

しかし、アダムを自分の価値観で縛るわけにはいかないサタンは、「死の森」でアダムと一緒に暮らし続けることはできない。サタンは危険を承知で、アダムを置いて町に出て、逮捕されて処刑される。

社会の価値観の中で個人の価値観を守り続けることは、つらく苦しい。社会の価値観を疑うような個人の価値観を、社会は快く思わない。社会の価値観に馴染んでいないアダムも、処刑されないまでも、社会の中で酷い扱いを受ける。

アダムはサタンによって、社会に馴染まない生き方をしてきた。社会に馴染んで生きていくことのほうが良かったのではないか。そう思いかけたところで、自分と同じように孤立した少女イヴに、アダムは助けられる。

自分の価値観を分かち合える相手に出会えたことで、孤立していた二人は安らぎを得る。社会でも個人でもない、家族という場所を二人は作る。さて、その家族という場所に、新たに子を招き入れるべきか。

サタンはアダムを引き取り、短い間の家族を作った。しかし、家族が社会のようになることを恐れたサタンは、家族を解消してしまった。アダムはずっと家族でいたかったのだが。

ただ個人のみとしていなければならないのは、つらく苦しいし、悲しくて寂しい。アダムは家族がずっと続いて欲しかった。だから、アダムはイヴの他に、新たな家族を欲しがった。

それは許されるのか。許される、とすれば誰に。許されない、とすれば誰に。一人では、答えは出せない。アダムは家族であるイヴに答えを求める。イヴはアダムが家族でいてくれることの喜びを伝える。

個人は個人でしかいられないことがつらい。だから、個人は家族や社会を作らずにはいられない。なら、個人が家族や社会を作ろうとすることを、一体どんな個人が非難できるだろうか。

もし、それが許される個人がいるとすれば、家族も社会も一切拒否できる個人だろう。家族や社会を完全に拒否し、その外側にいる個人だけが、家族や社会を作ろうとする個人を非難できる。そんな個人がどこにいるのか。

アダムはイヴの賛同と、二人を支持する人々の守護を得て、子を儲ける。アダムの煩悶は、他者の承認によって解決する。なぜなら、家族は他者なしには作れないからだ。アダムは他者の承認によって家族に所属し、家族を拡張する決意ができる。

子を儲けることとは、個人的な選択ではなく、家族的な選択だ、と言える。

アダムとイヴは、社会の手先であるアダンに追い詰められる。そこでアダムは、全員で滅ぶか、降伏するか、と考えるが、結局は夫婦だけで滅ぶことを決意する。

アダムは家族が続いて欲しくて、自分の家族を作った。だから、自分が滅びるとしても、家族を滅ぼすわけにはいかない。アダムは家族を存続させるために家族を解消する。

サタンは個人として生きる者だった。個人として生きることは社会と対立することだが、個人の力が社会に敵うことはない。しかし、個人の力は個人を援助することができる。サタンにとって社会から逃げ出した人々を援助することが、社会への抵抗だった。

サタンはリリスを援助し、アダムを援助した。アダムはサタンの思想を受け継いだが、全てではなかった。アダムはイヴと出会い、社会に抵抗するための場所として、家族を発見する。

サタンは個人を肯定するために社会に抵抗し、だから社会に発展しかねない家族は否定した。アダムは個人を肯定し社会に抵抗するためにこそ、家族を肯定した。

アダムは他のサタン支持者とも合流し、それが社会を脅かすほどの力を持つ。それだけアダム支持者となるサタン支持者がいた、ということでもあるが、それは個人を擁護する思想からは、家族を擁護する思想が必然的に生まれることを現している。

そしてそれが、エデンの社会、つまり反出生主義に抵抗する主要な力になる。個人を肯定することは家族を肯定することであり、それが反出生主義を否定する。しかし、それは失敗する。

肥大した家族擁護は暴走する。カインとアベルは、両親を奪われた憎しみで組織を動かしている。家族の事情で、個人が危険な活動に奉仕させられる。家族が社会のように、個人を抑圧するようになっていく。サタンの懸念は現実化してしまう。

家族が社会に抵抗し、それを滅ぼそうとするなら、社会化する家族もまた滅びなければならない。社会も家族も滅ぶ時、個人も滅ぶ。そして、誰もいなくなった。

アダムとイヴは追い詰められた時、安楽な死を頼った。エデンの社会も追い詰められた時、安楽な死を頼った。アダムの家族がエデンの社会と同じ命運を辿ることは、ここで暗示されていた。

個人を縛る一つの価値観への抵抗は、巡り巡って、新たに個人を縛る一つの価値観を生み出してしまった。では、個人を擁護することは間違っていたのか。サタンは間違っていたのか。

サタンは個人を肯定しながら家族を否定した。しかしサタンは、アダムが家族を肯定することは否定しなかったし、できなかった。その時、既にサタンは処刑されていた。死者は生者に抵抗できない。それがアダムの失敗に繋がる。

サタンは、間違っていた、と言うより、個人に関わり続けることができなくなって失敗した、と言える。その失敗をアダムとイヴも繰り返す。

全ての失敗は個人の死に起因する。死んでしまっては、失敗しそうになっている誰かに関わることはできない。

サタンも、アダムとイヴも、自分の後継者を儲けておきながら、その行く末についてはあまり関心がないように思える。それは、自分の後継者は自分の失敗をも後継している、と予感しているからではないか。

彼らは、自分の失敗が花開いてしまうのを見たくなかったのだ。だから、まだ後継者が若く希望溢れている内に、安楽に、死の中へ身を投げた。彼らは、失敗を恐れるからこそ、失敗しなければならなかった。

彼らが恐れるべきは死のほうであり、失敗を恐れるべきではなかった。個人を擁護し、社会に抵抗するには、生きて自分達の失敗がどんなものかを見極め、それと関わり続けることが必要なのだ。

最後に、アダンとアダムの失敗について書いておこう。

アダンは妻と親友と息子を失ったことを嘆くが、それはアダンが反出生主義と言っていなければ、全て失わずに済んだはずのものだ。妻も親友も息子も、追い詰めたのは他ならない、アダン自身だ。

今までの自分の行いを何ら省みることなく、生まれてこなければよかった、などと嘆くアダンは本当にろくでもない。

こんなろくでなしだからこそ、妻は逃げ出し、元親友は無言で殺され、息子は目の前で透明な壁を隔てて、おまえなんて父親でもなんでもないよ、おまえと一緒に生きるなんて冗談じゃない、と死んでみせる。

多分、皆愛想を尽かしていたのだろう。誰もアダンと話し合うことはしない。それとは対照的に、サタンとアダム、アダムとイヴは親密に話し合う。アダンに何が欠けているのか、が窺える。

アダンは、他人が自分と同じ価値観であることが当然だ、と思っているし、そうでなければ許せない。アダンがアダムを追い詰めた時も、当然アダムが自分の元に来るべきだ、と思っている。妻が逃げ出した後も、アダンは何も変わっていないのだ。

そんなアダンの目の前で、アダムはイヴと死んでみせるが、それは、おまえは妻に逃げられたけど、ぼくの妻は僕の許から逃げるどころか一緒に死んでくれるんだよ、と誇るかのようだ。

アダムからすれば、アダンが母を殺したも同然だ。だからアダムはアダンを侮蔑しつつ、母となったイヴと死ぬことで、母を取り戻す。そして、二度とアダンが追いかけてくることのできない領域に、母と共に永遠に逃げる。

これは母を殺した父に対する、息子の復讐だ。しかし、それは父を殺すことではなく、母の代わりとなる女を殺すことで成し遂げられる。この父と息子は一体どれだけ、違う、と言えるだろうか。一緒に死んだのだから責任は果たしている、などと言えるだろうか。

この作品は、社会に抑圧される個人の擁護から、家族の肯定へ到り、それが反出生主義に抵抗し得て、しかし失敗に終わるまでを描いている。なぜ失敗したか。それはアダンとアダムが結局は似てしまったことと関わるだろう。

アダンもアダムも、もしかしたらサタンも、女を殺さずにはいられなかった。女を殺すことから抜け出せないから彼らは失敗した。彼らに必要だったのは、女を殺さない生き方ないし思想なのだ。