スナオ作「もう一度、君に会いたい」を読む

読解対象: https://kakuyomu.jp/works/16816700427105888517

作品は「皆さん」に語り掛けることから始まる。なんだか、一時期流行った(今もまだあるのか?)ケータイ恋愛小説みたいな始まりだ。と言っても、その手の作品は一つも読んだことはないのだけど。

ただ、誰かの文芸評論で、その特徴を取り上げられているのを読んだことがある。大抵のケータイ恋愛小説には、こんな感じの前置きがあるのだそうな。

主人公は、夏の暑い夜、意味もなく三鷹の裏道を歩いていて人混みが嫌いで隣町の吉祥寺が苦手で、そんなとき(ってどんなとき?)、路地裏で人が倒れたような音を聞く。

音だけで人が倒れたとか判るのか、という想定の疑問に、「僕」は「そう思ってしまったのだからしようがない」と答える。ここでも「僕」は「皆さん」へ語り掛けている。そしてそれは、これから始まる物語の質を、予め告白している。

「僕」が「そう思ってしまった」のであって、実際にどうだったか、は関係ない。つまり、これから始まる物語は「僕」の都合が相当混入したものだ、と語り手である「僕」は言っている。

現場に向かうと、そこには病院の検査服のようなものを着た、髪も肌も真っ白で、この世の者とは思えないような少女が倒れている。

「僕」が、病院から逃げ出してきたのか、と訊くと、違う、と少女は答える。「僕」は少女を家出少女と判断する。病院の検査服で家出とは困ったもんだ。そして、そんな話はよく聞くらしい(世も末だ)。

「僕」は家出少女に、きみは行くところはあるのか、と訊くが、家出少女は、(わたしは)キミ(という名前)じゃない、わたしはアイ、と質問よりも名前のことを気にして、自分の名前を名乗る。

それに連られて「僕」も、僕は武藏、と自分の名前を名乗る。

そして武藏は、質問に答えてもらえなかったので、ため息をつきたくなるほどの気持ちになって、アイに意地悪をしてやろう、と考える(出会って間もない少女を相手に、危ない男だ)。

武藏は、行くところがないなら僕の家に来るか、と若干冗談めかして尋ねる。偽りの下心を見せれば、怖くなって家に帰るなり警察に行くなりするだろう、ということなのだが、冗談めかした辺り、半分以上は本気だったのではあるまいか。

アイは武藏の目をじっと見詰める。ここで武藏は、アイの目が真っ赤であることに気が付く(充血でもしているのかと思いきや、「ルビーのよう」と言うのだから、虹彩が真っ赤であるようだ。そんな怪談的都市伝説があったような)。

で、アイはその下心ありありの提案に乗ってきてしまう。冗談めかして言ったのだから、冗談だった、と断ればよさそうなものだが、そうはしない。武藏はアイを、お持ち帰りする。

翌朝、武藏は玄関のドアを激しく叩く音に起こされる。アイはベッドでまだ寝ているが、武藏は一緒に寝てはいない(武藏は、それを「もちろん」と言い添えて下心のなさを主張をするが、お持ち帰りした時点で説得力はない。意気地がなかっただけでしょう)。

武藏は玄関の外を窺おうとするが、ドアが突然開けられて、黒いスーツを着た三人の男が入ってくる(侵入する前にちゃんとドアをノックしている辺り、とても紳士的な人達だ)。

どうやら三人の男はアイを連れ戻しに来たらしい。抗議しようとする武藏だが、うるさい、と男の一人が武藏の腹部を殴り、武藏は鎮圧される(さっき紳士的と言ったのは取り消すぜ)。

それを目撃したアイは、武藏に酷いことをしないで(一晩で呼び捨てる関係になっていたのか。武藏に多少の意気地はあったのかもしれない)、と超能力で三人の男を放り投げる。

そしてアイは、行こう、と武藏の手を引っ張って走り出す。

二人は公園まで逃げてきて一息付く。逃げている途中で二人は走るのをやめて歩いていたが、その時から今に至るまでアイは武藏の手をずっと握ったままだ。そのことに武藏は気付く。

手を放すように促すと、アイは即座に断る。武藏は三人の男について尋ねる。アイは、自分は超能力の研究所から逃げてきた、と話す。そして、戻りたくない、とも話す。

武藏は、逃げよう、と言ってアイの手を引っ張って公園を出て、タクシーを捕まえて、立川に向かう。

立川に着いた二人は、特別急行列車あずさに乗り込む。しかし、列車は途中で緊急停車してしまう。そして、あの三人の男が列車に乗り込んでくる。

二人は逃げようとするが、武藏は銃で左肩を撃たれてしまう。男達はアイに、これ以上逆らうなら武藏を殺す、と脅す。アイは戻ることを了承し、武藏に感謝を伝えて男達と去っていく。

武藏は銃で撃たれた傷で気絶し、病院で目を覚ます。手当てされた傷も痛むが、心も痛む。

アイを守りたかった。アイともう少しだけでも一緒にいたかった。そう思うと堪らず、武藏は病院を抜け出す(どうすれば今度は守れるか、なんて考えている暇はない。善は急げだ)。

武藏は研究所に心当たりがあった。その研究所に着く頃には夜になっており、研究所から帰宅しようとする人達と擦れ違う。その中の一人が何かを落とす。落とし主は気付かずに行ってしまう。

落とし物は研究所のIDカードだった(とても運がよい。日頃の行いがいいのだろう)。武藏はそれを持って研究所に潜入する。

研究所内でさまよう武藏の頭の中に、来てはいけない、とアイの声が響く。武藏がアイを(探す気で)叫んだ直後、背中に銃を突き付けられる。

銃を突き付けた男は、武藏を歓迎する、と言う。アイに言うことを聞かせるためには武藏が必要だ、という判断をしたらしい。男は、武藏をアイに会わせる、と言う。

武藏はある一室に連れられる。そこにはガラスケースのようなものに閉じ込められたアイがいた。思わず駆け寄ろうとする武藏だが、右脚を撃たれてしまう。武藏は呻くようにアイを呼ぶ。

男はアイに(何の?)超能力を(何に?)使うように促し、更に武藏の左脚を撃つ。アイは再び、武藏に酷いことをしないで、と言って超能力を暴発させる。研究所内の所々で爆発が起き、研究所全体が揺れる。

男は銃をアイに向け、化け物が、と言って発砲するが、弾丸は跳ね返されて銃は壊れる。男は逃げ去る。アイは武藏の上半身を起こして、抱き締めながら武藏の身体を気遣う。武藏もアイを抱き締め返す。

アイは超能力を使って武藏の傷を癒すが、そのために命を落とす(両脚を銃で撃たれているのはそこそこの重傷だけど、命に別状はなくない? 自分の命と引き換えてまですることか?)。

部屋が熱い炎に包まれる中、冷たくなったアイを抱き締め、武藏は泣く(遺体が冷えるの早過ぎでしょ。超能力の副作用かもしれないけど。それより早く逃げて。せっかく命を賭して脚を治してくれたのに、無駄死にになっちゃうよ)。

最後にまた「これが僕と彼女、アイとのひと夏の思い出だ」、と「皆さん」への語り掛けが行われる(ひと夏の思い出などと言って甘酸っぱい感じで済ませてしまうには、少々過激な出来事であった)。

あの後、武藏は病院に運ばれ、そこで目を覚ます。そこにはアイの姿はない。武藏は彼女のことを、夏が来れば思い出すらしい(はるかな尾瀬みたい。とおい空)。

彼女が何者だったのか、あの後どうなったのか、武藏は何も分からないらしい。夏が来ると思い出すのだから、何回か夏を迎えている、つまり既に数年が経過しているはずだが、警察だとか報道機関だとかとの接触もなかったのだろうか。

世間では、あの事件がないことになっているのか。仮にそうだとしても、武藏はあの事件を身を持って潜り抜けたわけで、事件がないことになっているなら、それはとても恐ろしい事態のはずだ。

しかし、そういったことは全て放っておいて、武藏はただ一つのことを思い願う。「もう一度、君に会いたい」(タイトル回収だ。胸が熱いね)。

この作品の主な内容は、昭和的なもので言えば、過密で過酷なスケジュールから抜け出してきた人気アイドルと偶然出会った(アイドルファンが自己を投影するための)極普通の青年との、秘密の逢瀬と逃避行だろう。海外のもので言えば「ローマの休日」か。

城を抜け出した姫と、冴えないけど(最後には)誠実な一般男性との、束の間の許されぬ恋だ。希に、よくある(本当に?)。ただ、そういった作品とこの作品が違うのは、姫が城の人間から大事にされていないところだ。

姫にしろアイドルにしろ、彼女らが連れ戻されようとする理由は、彼女らを支持する多数の国民やファンがいて、彼女らを待望しているからだ。国民やファンの支持があるから、彼女らは大事にされるし、手荒に扱われることはない。

しかし、アイには誰の支持もない。彼女の存在はそもそも秘密だ。彼女が連れ戻されようとする理由は、彼女の超能力だ。超能力が手に入りさえすればよく、彼女自体は必要とされていない。

そもそもアイの外見は、真っ赤な目と真っ白な髪と肌(紅白じゃん。めでてぇ)、という異常なものであり、知能も低そうだ。

アイは、普通には一人で生きていくことはできないだろう。超能力があることによって、辛うじてアイは生かされていた。超能力を差し出すことで、アイは生を保証されていた。アイは生きるために身を売っていたのだ。

アイは、高貴な存在だから追われるのではなく、卑しい者として借金を踏み倒して逃げたから追われるのだ。その借金は、アイの身体(に備わった能力)で返済させられる。

アイとは、借金のために娼婦とならざるを得なかった、憐れな少女を表している。だから武藏は、アイに手を出していないことを強調する。

武藏は、アイの身体(に備わった能力)に欲望を抱いて、それを求めてはならない。そうしてしまえば、自分もあの男達と同じになってしまう。武藏は、自分とあの男達とは違う、ということを主張する。

それは言わば、童貞の価値の主張だ。あるいは、もう少し控え目に言って、草食系男子の価値の主張だ。女性を妄りに求めない。それは価値ある態度であり、逆に言えば、女性を妄りに求める連中に価値などない、と武藏は主張する。

その主張は何のために行われるのか。それは女性を(妄りに)求めるためだ。あんな連中より僕のほうが余程立派でしょう。だからあんな連中からは離れて、僕のところへ来なよ。結局はそういうことが言いたい。

童貞こそが女性を守る、という主張は、暴虐ヤリチンの存在を前提する。暴虐ヤリチンは、女性への暴虐を前提する。だとすれば、童貞の価値は、暴虐された女性を前提する。

童貞が価値を持つ時、女性は既に暴虐に曝されている。童貞に価値がない世の中のほうが、女性にとっては良い。

童貞が、童貞には(女性を守れる)価値がある、と叫ぶことは滑稽と言う他ない。それは、童貞が暴虐ヤリチンにお下がり(としての女性)をねだっているのと、同じことだからだ。

アイは銃で撃たれたが殺されなかった。しかし、銃で撃たれた武藏を救うために命を落とした。それは銃で殺されたのと同じだ。アイは研究所の都合では死ななかったが、武藏の都合で死ぬことになった。彼女は男達の都合で死んだ(殺された)のだ。

それは研究所から(用済みになった)アイを、武藏が譲り受けただけとも言える。研究所がアイの命と引き換えに得ていたものを、結局は武藏も得てしまう。

研究所と武藏はどう違うのか。暴虐ヤリチンと童貞はどう違うのか。女性を死なせてしまう点では同罪だ。ただ童貞は、女性のほうが勝手に望んで(喜んで)命を捨てたのだ、と言い訳ができるだけだ。

しかし、女性の死の責任を免れ、女性の死を劇的に悼んだところで、女性の命から利益を得たことに変わりはない。そのことに素知らぬ顔ができるのが童貞だ、と言うならそんなものに何の価値があるのか。

それは、童貞の童貞による童貞のための価値だ。女性にとってそれは何の価値もないどころか、不愉快かつ有害なものでしかないだろう。

暴虐ヤリチンと童貞は違う、童貞に価値がある、と言いたければ、童貞は女性を死なせるべきではない。

童貞は、童貞の価値を叫ぶより、ただ誠実に女性と向き合うべきだろう。童貞の価値なんかに囚われない童貞こそが、暴虐ヤリチンから本当に女性を守れる。

童貞は経験を積み、童貞を卒業し、誠実チンへとクラス・チェンジすべきだ。そうできる可能性こそが、童貞に宿る数少ない価値なのだ。

この作品は奇妙なことに、主人公の「皆さん」への語り掛けで始まり、「皆さん」への語り掛けで終わっている。その間に主人公の「ひと夏の思い出」が置かれる。

なぜこのような構造なのか。「ひと夏の思い出」だけを書き記すのでは、いけなかったのか。

その理由として、作者の自信のなさがあるように思われる。

作家の村上龍はそのデビュー作に於いて、後書きを作者と同名である主人公の名前で書くことで、作品の現実味を支えようとしたようだ。作者=主人公、だから作品の内容は作者の実体験、という演出だ。

この作品もそうなのか、と言うと、ちょっと違う。肝心の内容が、超能力やら研究所の爆発やら、現実とは掛け離れたものだからだ。この作品は現実味を必要としていない。

寧ろ、この作品は虚構性こそを必要としている。現実のような物語ではなく、現実よりも冒険とロマンスに満ち溢れた物語を志向している。しかし、それが果たされている、とは言い難い。

作者=主人公、というところまでは似ている(作者と主人公は同名ではないので、同じとは言えない)。そうすることで作者が図るのは、作品内容の品質が高くはないことの誤魔化しだ。

「ひと夏の思い出」は主人公の回想という体で書き記されている。個人の回想なのだから、省略があったり、矛盾があったり、都合が良過ぎたり、多少しますよ、というわけだ。

作品の主な内容が、語りの中の語りであり、その品質は語り手としての主人公の記憶や表現力に左右される。主人公はそういったことが得意ではないので、結果として作品内容の品質が高くなることはなかった。そんなことを作者は言いたい。

記憶や表現力が良くない人物を主人公に据えたのは誰じゃあ。そんな主人公に語らせることで、作品を成立させようとしたのは誰じゃあ。それは、作者じゃあ。

作者は作品の最高責任者だ。作品にどんな仕掛けを施そうが、作品の最終的な品質には、いかなる場合も責任を負わなければならない。作者はつらいよ。

作品の主な内容を、語りの中の語りにしたことで、この作品はどんな表現になったのか。内容が作者の語りではなく主人公の語りになったことで、語りへの信頼は揺らぐ。全部、主人公の妄想じゃないの? ということになる。

実際、主人公の語った内容は妄想の如きだ。それが妄想ではないと作中で保証できる者は誰もいない。不確かなことを語る主人公だけが、確かにいる。つまり、これは「ある男が長々と妄想を語るだけ」の作品と見ることもできる。

「もう一度、君に会いたい」の「君」とは、語りの中の少女のことだが、語りが妄想なら、語りさえすれば妄想の中の少女とは繰り返し何度でも会うことができる。いや、そのようにしてしか、「君」に会うことはできない。

主人公は「もう二度と、君に会えない」とは言っていない。「もう一度、君に会いたい」と思えば、いつでも何度でも「君」に会うことができる。

だから主人公は「もう一度、君に会いたい」と望む。望めば叶う。なぜなら、「君」は「僕」の妄想の中の少女だからだ。