双頭あと作、小説「エヴィングの瞳」を読む

この作品は複雑だ。それは作者の中にあるものの複雑さを、そのまま表している。しかし、この作品の作者が特別に複雑なものを抱え込んでいる、というわけではない。創作者に限らず、人は誰でも、その人固有の複雑なものを抱え込んでいるはずだ。

創作は自分の中にある複雑なものを、表出する作業だ。その時、創作者は複雑なものを、整理して表出する。と言うより、その整理こそが創作と呼ばれる行為の本質だ。

人の中にある複雑なものとは、他人には理解しがたい。本人にだって、全てを理解することはできない。自分の中にある複雑なものを他人に理解してもらえる形に整理できた時、人は、自分自身を少しだけ理解できるようになった、と思える。

この作品は複雑だが、少しも他人に理解できない、というわけではない。一読すれば、おたく向けの意匠にミステリー要素を加えた物語であり、そこまでは理解できる。

問題は、物語を基礎付けるものだ。そこには性愛や暴力といったものが埋め込まれていることが窺える。しかし、それで作者が物語に何を託そうとしているのか。それがよく理解できない。

何かを肯定しようというのか、あるいは何かを否定しようというのか。恐らくは、その両方だ。この作品は何かを肯定しようとしながら、同時に否定しようともしている。それがこの作品を複雑にし、物語を不安定なものにしている。

だから、この物語から何かを読み取ろうとすると失敗する。不安定な物語からは、不安定な答えしか引き出せない。作者自身は何らかの答えを出すことを躊躇している。この作品の複雑さには、作者のその不安定さが表れている。

しかし、この作品はそれでも、ある一つのことを表現できてはいる。それは一体何か。

それは、わたしは少女を傷付ける者にはなれない、ということだ。作中の言葉を使うなら、「邪竜」になることへの断念だ。ここで注意すべきは、「邪竜」であることをやめる、ではない、ということだ。

この作品に、一度たりとも「邪竜」が存在したことはない。「邪竜」は、明黒がなりたかった理想の姿だ。明黒は「邪竜」になりたくて、なれなかった。

人々を蹂躙した後にその人々を天から見下す者のことを、明黒は「邪竜」と呼ぶ。これは創作者のことを言っている。悲惨で残酷な運命を、容赦も躊躇もなく登場人物に与え、その様を眺めることができるのが創作者だ。

明黒は作者の分身だ。作者は明黒として、作品の中で憐れな少女達を好きに蹂躙し、眺めることができる。作者はそれを強く望んでいるにも拘わらず、その実行を延々と引き伸ばす。

月美を初めて殴るのにも、長い頁数を掛け、更には、それは他人の代行としての暴力である、という言い訳を必要とする。

この暴力で明黒の「邪竜」が解放された、と作中では語られるがしかし、解放されたはずの「邪竜」はその後、大したことはしていない。

終盤で、明黒が月美を存分に虐待する場面が設けられる。一応はこれが、作者が「邪竜」として、創作の中でしたかったことのはずだ。

しかしそれは、作者の分身である明黒の書いた脚本による芝居であり、その芝居の発注主は月美で、月美は自身の目的のために進んで虐待を受け入れていて、更には、好きな明黒の暴力ならいくらでも耐えられる、とまで言ってくれている。

暴力の邪悪さは何重にも弱められている。「邪竜」の行いにしては慎まし過ぎる。寧ろ、作者は反「邪竜」なのだ、と言える。

天衣は二人の芝居に騙されている振りをしつつ、「邪竜」として目覚めた振りをする。そして、もっとちゃんと酷いことをしよう、と天衣は明黒を唆す。明黒はその提案に心惹かれながらも、それを断念し、天衣を制止しようとする。

この作品で、明黒の中で目覚めたのは「邪竜」ではなく、反「邪竜」だ。

作者は少女を愛しながら、少女を傷付けたい、と望んでいる。だから作者は、創作の中で少女を傷付けようとするのだが、少女を愛しているために、つい少女に同情し、少女の肉体の虚構性を高めてしまう。

それで、少女は傷付かなくなる。しかしそうなると、作者はその少女に対する関心を失うので、新たに別の少女を求めることになる。その繰り返しだ。

その事態を解決するために作者は、創作への態度として、少女への欲情を捨てるか、少女への同情を捨てるか、それを迫られる。色々と工夫してみた末に作者は、少女への同情を捨てることはできない、と結論を出した。

少女への同情を捨てることが「邪竜」になれる条件だ。作者は「邪竜」になることを諦める。

作者の、少女への欲情を書き留めたものが月美のノートだ。また、それは作者の作品への過度な干渉も象徴している。それを少女達に委ね、その手で欲情とは違う言葉を書き込ませ、破り捨てさせる。

作中人物に、作者の欲情を象徴するものを壊してもらう。作者は自らの創作によって、創作の中であっても少女を残酷に傷付けるようなことはしない、という自身の創作への態度を明確にする。その過程を、この作品は表現している。

作品の本編は、明黒と月美が、「人々の行き交う場所」へ戻ろう、と決意するところで終わる。「人々」とは自分ではない誰かのことだ。作者は、自分だけが愉しく消費できる創作ではなく、自分以外の誰かにも愉しく消費してもらえる創作を目指す。

本編の後に続く「オマケ」の中には最早、本編に頻出した暴力的なものの影はない。もう天衣は、便所で暴力を愉しむことはないだろう。海野も暴力を振るうことはなくなり、ただのBL好きの不良美少女として、萌えの一要素を担うだけになるはずだ。

作者が出した答えは、自家二次創作だ。自身の欲情が詰まった一次創作を発表するのではなく、そこから暴力的要素を排し、萌え要素を引き出し、自分以外の誰かにも受け入れられるように工夫してから発表すること。

だから、この作品は「オマケ」という、作者が出した答えも含めて、一つの表現になっているのだ。