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遠く、山の向こうで鳥の鳴き声が聴こえた気がした。
阿久津あくつは、閉じていた瞼を開き、眼前に広がる広大な夜の闇を見つめる。
「ほんまに、、勿体ない場所やな。」
陽の出ている時間であれば、ここからはきっと素晴らしい眺望なのだろう。
黒一色の中で濃淡が別れた境界線をなぞると、雑木林の隙間からなだらかな丘陵がぼんやりと見えてくる。
「この場所にこんなもん作ったんが間違いや。」
目の前の風景と自分とを隔てているもの。
遮音性と防寒断熱に優れた高性能な巨大ガラスに向けて阿久津あくつは冷ややかな声で呟いた。
仕事様の黒い皮手袋をしたまま、きつく結っていた長い後ろ髪をほどく。
手首へ着けたニクソンのデジタル時計へ視線を落とすと、グリーンの蛍光は深夜0時12分を表示していた。
この場所に到着してから、間もなく2分30秒。
ほとんど予定通りに事は運んでいる。
広々としたリビングには闇夜の静寂が満ち、空調の止まった室内は心なしか少し肌寒い。
室内に飾られた骨董品の類を見まわした後で、阿久津は再びガラスの向こうに広がる山々をぼんやり眺めた。
雲間から覗いた月明かりが何もかもを吸い込みそうな暗闇を微かに照らしだし、窓の前に立つ阿久津の顔を鏡の様に映しだして見せた。
不精髭、長髪、眼鏡。
けったいな顔だと、阿久津は自分で自分の顔を蔑んだ。


大概、別荘なんてのは金持ちの道楽のひとつだ。
そのままにしておくべき雄大な山々を私利私欲の為に開発し、大層な建築家を呼びつけては奇抜な建造物を作り上げる。
金を持て余し、時間を持て余し、余りあるそれらを退屈の延長で悪戯に消費し、癒しだリラクゼーションだなんだと柔らかなフレーズに託つけては無慈悲に山や海を破壊する。
だいぶ前に調べてみたことがあるが、この国だけでも実に25万軒以上の別荘が建てられているらしい。
まったくバカにしている。
自然を。
地球を。
そうした考えが頭の中をぐるぐると廻る。
しかし、俺は環境破壊を断固否定する科学者や専門家、肉や卵を一切食べない思想家というわけではない。
全員が極端な思想で生き方をコントロールしない限りは、どうしても犠牲はつきものだ。
この星に生まれ、生きていく為に必要な需要が大衆の中にあって、それ故必ず犠牲になってしまう事物が世界に存在するというサイクルを避けて生きることの難しさ。
人類の歴史が生んだ生と死のバランス。
なにか多くの犠牲の上に俺たちの小さな安寧がある事。
その事は重々承知しているつもりだ。
だが、この別荘という場所にはそうした必要性が見えない。
あってもなくても誰も困りはしないし、シーズン以外は所有しているという肩書の為にしか意味を成さない。
個人のちっぽけな欲望で地球の一部を犠牲にし、都会でもできるような趣味を用いてくだらない時間を浪費する。
別荘などなくとも代替行為はいくらでもある筈だ。
山の空気や、自然の移ろいを感じたければシンプルに山を歩けばいい。
雄大な自然界において人間が小さな存在だという真実をあやふやにし、守られた囲い越しに風景を眺めて何を感じ取れるというのか。
傲慢な驕りが過ぎるこんな建物はさっさと消えてしまった方がいい。
地球の為に、一秒でも早く。

気配を感じ、後ろを振り返る。
如雨露じょうろの中の液体を不規則に撒き散らし、日向ひゅうがが首を振りながらリビングに入ってくる所だった。
依頼人から支給されたレインコートを身に付けた出で立ちは、悪戯に興じる小さな少年の様に見える。
実際、日向の陶器の様な白い素肌は、年齢が判然としない浮世離れした印象を受けさせた。
耳に着けたヘッドフォンからは強烈な爆音が漏れ出していて、その重低音は離れて立つ阿久津の耳まで聴こえて来た。
さきほど自分へ向けていた蔑む様な目を、阿久津は日向へと向ける。
今回に限って渋々承諾した事だったが、やはりこの音は癇に触る。
日向の我儘は、これきりにするべきだ。

「、、、終わった?」
じっと見つめていた阿久津の視線にようやく気付いたのか、如雨露を振りまわす手を止めた日向はヘッドフォンの片方を外して言った。
阿久津は一度軽く頷くと日向の横を通り抜け玄関へと向かった。
重そうなワークブーツを履いているが、足音は殆んど響かない。
「、、すぐ行くね」
背後から日向の声が聴こえる。
阿久津は片手をあげ、ひらひらとさせた。


山中に停めた車に戻ると、ダッシュボードに用意していたビニール袋へゴム手袋と身に着けていたレインコートを捻じ込む。
用心の為に消していたルームランプをなんとなく点けると、フロントガラスの端々で乾いて染みの様になった茶色い泥水が照らしだされた。
道中の暗闇の中では大して気にならなかったが、それらは明るみにでたことで途端に阿久津の神経へ粘着的に絡みついてくる。
「汚いのう」
阿久津はエンジンをかけ、ワイパーのレバーを乱暴に下げた。
途端に、キキィーと悲鳴の様な高い音をたて、枯れ枝の様なワイパーが信じられない程ゆっくり動きだした。
移動の為だけに与えられた車とはいえ、あまりにも粗末が過ぎる。
加えてこの車、、ひどい匂いだ。
窓を開けていても押し込めて漂う鳥小屋の様な匂い。
阿久津は、連鎖的に鶏肉の生産過程を映した映画のワンシーンを思い出した。
居心地の悪さを誤魔化す為にポケットから煙草を取り出すと、握り潰したようにくしゃくしゃになってしまっている。
溜め息と舌打ちが綯い交ぜになった重い音が口から出る。
諦め半分に指先で中を探ってみると、辛うじて一本吸えそうなものが残っているのを見つけた。
阿久津はその一本を取りだして火をつけると、衣類を詰めたビニール袋へゴミになった残りの煙草を放りこむ。
「なんや、これが天からの、おぼしめしっちゅうヤツか。。」
フロントガラスを奇妙に動くワイパーは、往復の度に悲鳴の様な音をあげている。
跳ねた泥水の汚れは一向に取れる気配は無く、阿久津は下げていたレバーを元の位置へと戻した。

助手席のドアが開き、日向が乗り込んでくる。
「ごめん、ごめん、待った?」
「行くで。」
阿久津は、煙草をくわえてからハンドルを握り、ゆっくりと車を発進させた。
敷地から出て、山道を数キロ走った所で再び視線を腕時計に向ける。
0時15分32秒。
ほぼ予定通り。
今回のオーダー内容はよくある凡庸なパターンだ。
対象の身体能力は非力で無防備。
環境に配慮する必要も一切ない。
時間は最短で5分。長くても10分。
経験から言って、これはイージーゲームだ。

暗闇を映すサイドミラーが背後で煌々と映える陽炎を映している。
明日から一時いっときの間は騒がしくなるだろうが、あの場所の浄化は既に始まっている。
死に絶えた大地に等しく恵みの雨が降り、残るものは残り新しく芽吹く命もあるだろう。それらはもう誰の手にも及ばない。
阿久津はアクセルペダルを踏む足に力を込めた。
夜は静かに過ぎて行く。



日向ひゅうが、、音聴きながらの仕事は今回きりや」
街灯の無い空き地に車を止めると、阿久津は語気を強めて言った。
流し目に、日向の首にかかったヘッドホンを見つめる。
至る所にステッカーが貼られて、もはやどこのメーカーのものなのか、いつの世代のものなのかも判別ができない。
「、、ずっと嫌な顔してたしね。」
聞き飽きた台詞を耳にしたように、抑揚の無い声で日向は答える。
「リスクの可能性になるもんは、クセになる前にやめたほうがええ。」
阿久津は、ハンドルに手をかけたまま、目の前の暗闇を見つめ言った。
日向もフロントガラスを見つめたまま、じっと目を逸らさない。
「、、ミッキーもさ、煙草、やめてよね。くさいし。」
阿久津は黙ったままで窓の外へ吸いかけの煙草を投げ捨てた。
「それ。ポイ捨ても。リスクになるよ。モラルとしても問題あり。」
まるで阿久津の行動を先読みしていたように日向は語気を強めながら続けて言った。
阿久津の表情は固く、押し黙ったまま微動だにしない。
日向も相手を伺うようにそのまま何も言わずにシートへもたれた。
虫の鳴く小さな音だけが二人の沈黙の間に響く。
永遠の様な数秒の後、二人は申し合わせたように同時に車を降りる。
砂利の中に転がった吸殻を拾い上げた阿久津は、片手にぶら下げた先程のビニール袋の中にそれを投げ入れた。



「ハウス」と呼んでいる雑居ビルの一室。
この場所は、阿久津と日向二人のオフィス兼自宅となっている。
ほとんど廃墟のようで、阿久津達の他に事務所を構えている人間はおらず、もう随分前から二人だけの城だ。
コンクリート打ちっぱなしの冷ややかな空間には、皮が破れた深紅のアンティークソファーと中華様式の小さなテーブルが置かれている。
二人の人間が居住しているというのに、あまりに生活感が無く雑然としていて、その光景はハンマースホイの描く一枚絵を切り抜いた様だった。
二人がハウスに戻ると、頃合いを計ったかの様にけたたましく電話が鳴った。
闇の中で赤く点滅する電話機へと向かった阿久津はゆっくりと受話器をとる。

「、、、、はい。」
声を出すまでに阿久津は約2秒の空白を挟む。
電話の相手が誰だか察するのは容易だったが、反射的に飛び出すこのクセはどうにもならない。
パチンという音と共に部屋の灯りが点く。
受話器を耳にしたまま背後へ目をやると、電気のスイッチの前で日向がレインコートを脱ごうと両手を振りまわしている。
その姿はまるで服を自分で脱げない幼児のようだ。

「もしもし、俺だ。片付いたか。」
受話器から届く声に意識を引き戻される。

「もしもし、えぇ。問題なく。例の車の処理、お願いします。所定の場所に停めましたんで。」
急に大きな音がして再び後ろへ目をやると、不機嫌な顔をした日向が脱ぎ捨てたレインコートを何度も何度も床に叩きつけていた。
コンクリートの床にコートの留め具が当たる音が何度も響く。
咄嗟に受話器を片手で覆い、目を見開いた阿久津は「う・る・さ・い・ね・ん」と、口だけ動かして日向へ伝える。
しかし、当の日向はレインコートに集中するあまり、阿久津の行動には全く気付かない。

「、、、報酬は明日にでも振り込ませてもらう。」
耳から離していた受話器から声が聴こえ、阿久津は再び電話を耳に押し当てた。
「ああ、口座、間違えんとってください。この前はそれでお互いややこしい事になりましたし」
阿久津の言葉に、向こうからの返事は無い。
数秒間の沈黙が流れた。
「分かっているとは思うが、何が起きても外部へ我々の名前は出すんじゃないぞ。」
こちらの話を無視して話される事は今回に限った訳ではなかったが、阿久津は解せないという様に眉間に皺を寄せた。
「では、また連絡する。」
阿久津の返事を待たずして電話はガチャリと一方的に切られた。




自費出版の経費などを考えています。