詩と解像度

先日、詩をはじめてから一番付き合いの長い友人に、「きみの詩は解像度がすごい」と褒めて頂いた。

でも、その「解像度」がよくわからないというか、なんとなくピンと来ない。

新型テレビみたいに、画素が細かいから鮮やかに見えるということだろうか。それとも、世界をものすごく分割する人なんだね、ということだろうか。うーん。

と、思っていたのだが、Twitterで最果タヒさんの詩を拝見したとき「あ、解像度ってこれのことか」となった。

とは言っても説明が難しいのだが。

彼女の詩を読んだとき、「こんなにクリアに見えているのか」と思わせる何かがあった。

僕が必死に目を凝らして見ようとしているものを、彼女にはあんまりにも当然のように見えているんだろうなとそのときは思った。実際はどうか知らないけど、とにかくそう思った。

同時に、自分の視界がほんのわずかに透明に近づいた気がした。極端に言えば、濁った海のなかでなんとか海底を捉えようとしていたはずなのに、急に水が澄んで水中にも地平線ってあるわなって思い出すような。

こういう詩に出会ったとき、「解像度」という言葉を使った感想が出てくるんだろうなと、個人的にはすごく納得がいった。やっぱりプロの方はすごい。

僕のやりたい詩は、たぶん「解像度の高い詩」だったんだと思う。

この世に存在するなんらかの事象を既存の言葉を組み合わせて換言したりたとえたりする、というのは詩において僕らがやりがちな方法ではあるけれども、もっとシンプルに、「そう見えたからそう書く」というのが、「解像度の高い詩」の行きかたなんじゃないかと思う。

太宰治が「風車が悪魔に見えたらためらわず悪魔の描写をせよ。単純な眼を持て」みたいなことを言ってた(ような気がする)が、この「単純な眼」で世界を捉える力を高めていく、ということが「解像度を高める」ということなんじゃないか。

あと、彼は上記と同じ文脈で、「藝術的装飾を排除せよ」みたいなことを言ってたと思う。つまり、作品に芸術っぽい雰囲気を纏わせようとするな、ということだろう。

詩でいえばなんだろう。わざとカッコいい言葉を偏重してドラマチックに仕立てようとしたり、とかだろうか。

鑑賞者としても、詩の雰囲気に酔っているうちは、それが実際に楽しいとしても、「本当に詩を享受している状態」だとは思わない。あくまで個人的な話だけれど、「詩の雰囲気はわかってきたが内容というかこの詩の本質に触れることはできてないな」と感じて、この詩を脳内の「わからんから保留」リストにぶち込んでおく、というのはよくある。詩って、「わからないから保留」ができるんですよね。何年か経って急に「ア!わかった!」ってなることがある。

話戻って、「単純な眼を持つ」つまり「解像度の高い詩を追求する」ことは、詩において、「世界vs僕」のサシのフィールドに余計なものを持ち込まない、ということではないだろうか。

「余計なもの」というのは、先に述べたような芸術的装飾だったり、かっこいい言葉の偏重だったり、「こういうことを書く人間ってどう思われるんだろう」とか「上手な詩は…」とかいう世間体や他者のまなざしだったり、ひょっとすると「僕は〇〇な詩を書きたいんだ」というこだわりだったり。

そういうこと一切を忘れて、世界とただ向き合うこと。世界に一対一で挑んでいくことが大事なんじゃないか。

つまるところ、「解像度の高い詩」の目指すのは「純粋な私というフィルター」「純粋な私の色メガネ」なんじゃないかな、と思う。たぶん。

このへんは全部僕の推論というか妄想なので、こういう無責任な終わらせ方にしておく。

でも、今んとこ僕は本気でこう考えています。





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