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1982年の湖尻峠迷子事件

 目指せスーパースター。蕎麦宗です。

 『人となりは10歳で完成する』

が持論だ。

 三つ子の魂という通りに、出来あがりつつある人格形成の根幹が10歳で大方完成し、20歳・40歳と枝葉を伸ばしながら螺旋らせんを描き、それを繰り返した中で80歳で終える、というのが大雑把な人生の構造と捉えている。
 自分は不惑をとうに越え、この先はもうほとんど今のこの考え方や価値観は大きく変わることはないだろう。そしてその基本的な部分は10歳、つまり小学4年生の時に出来上がっていた気がするのだ。

 そんな時期に一緒に過ごしていた一人が《ひーちゃん》だ。

 久しぶりに伊豆長岡駅前の鳥道楽という焼き鳥屋を営む同級生の焼き鳥を食べ、満足しながら、隣に座る《ひーちゃん》とバイクやクルマの話で盛り上がっていた。彼も鳥道楽の店主・高橋勇好と同様、幼少期からの友人で、中学の時はバレーボール部で一緒だった。
 で、そのうち昔話が始まる。『バレーの練習した記憶ないねぇ』とか『サッカーばっかりやって、女バレの邪魔して殴られて…』なんて懐かしみつつ、酔いが回るにつれて記憶はさかのぼり小学生時代の話になった。

 小学生の頃、イタズラ小僧でいじめっ子でロクでもないので『宗くんと遊んじゃいけません』とか親御さん達から良く言われていたが、ひーちゃんは関係なく遊んでくれた。
 家に行くと、ヨーコ姉ちゃんという彼の姉さんもいて、彼同様とっても優しく、しかも美人なので羨ましく思いつつ、とっても憧れていた。そんなひーちゃんの想いとしては、

『宗くんは、なんか変わってて面白くてハチャメチャだけど、とにかく一緒に遊ぶと楽しかったよ』

と言ってくれた。
 あれからもう40年近い年月が流れているので、時を越えてとっても嬉しかった。けれど、それ以上に、小学生の時の一番の思い出が僕とひーちゃんとで被っていたことが、何だか照れ臭いくらいに喜べることだった。

 その《鳥道楽》で焼き鳥に舌鼓を打ちながら、彼と語った思い出が小学4年生の遠足。
 江戸時代に《深良用水》という箱根の芦ノ湖から導水トンネルを掘った村人の苦労を偲びつつ、その史跡を巡る企画。湖尻峠という、今では地元の自転車ヒルクライマーの聖地となったそれが、当時(1982年)はまだ未舗装の荒れた林道で、麓の深良の集落でバスから降りた韮山小学校共和分校4年生の一行は、歩いて峠を越え芦ノ湖畔の深良水門まで下り、見学後は再びバスに乗り学校へ戻る、という行程だった。

 当時の僕は、何かにつけて一番信者で、競い合えるものはなんでも一番を目指していた。その日も3つあったクラス別ではなく、自由なペースで峠まで歩いて良いという決まりだったので、ひーちゃんを従えて峠の一番乗りを目指した。
 けれど、残りあとわずかというところまで来た時にふと、それがつまらなくなった。

『一番乗りだからって何が偉いんだろう?』

10歳の僕はなんの脈絡もなくそう思って、ひーちゃんと相談して路傍ろぼうの石に二人腰掛けて、『ビリっけつ』の様子を見よう、となった。 
 やがて皆が追い抜いて行く。どうしたの?と声をかけてくれるヤツもいる。先生方も具合を心配してくれた。当然なんともないので二人で適当にごまかして最後尾を待った。
 学年全体の集団がにこやかに楽しそうに過ぎてからしばらくして、最後の面々が来た。太っていたり病気や障害があったりしてみんなと同じペースでは歩けない子達だった。みんな辛そうだった。その引率として野際先生という爺さん教諭が付いていた。どうしてそう思ったかは記憶にない。僕らは彼らと一緒に歩こう、と決めた。

 ずいぶんと遅れて、ようやく誰もいない峠に着いた。さて、どの道だろう?!となった。その際、野際先生は芦ノ湖畔から峠に繋がる芦ノ湖スカイラインという有料道路を歩き始めた。僕はその脇にある

『深良水門はこちら→』

という道標を見つけ先生に伝えたが、却下された。そうして、そのままズンズンと進んで行く。仕方なしに僕とひーちゃんを含めた6人の児童は先生に着いて行った。

 ようやく芦ノ湖に着いたがものの、道標は湖畔の林道に曲がれとある。随分と歩いて史跡《深良水門》に着いたが、誰一人いない。先生もおかしいなぁとか言いながら、持参したお弁当を皆んなで食べながらしばらく待っていた。
 が、誰一人一向に現れない。ひょっとしたら迷子になったんじゃないのか、と言い出す子もいた。しかし、野際先生は相変わらず取り合わない。

 仕方なしに、もう一度今来た湖畔の林道を戻ることにし、有料道路に出たまさにその時、向こうから各クラスのバス3台がこちらに向かって走ってき来た。

『おー、良かった皆んながいたぞ』

だが、「やっと合流できた」なんてのん気に皆んなで安心したのは束の間だった。

どうやら、やはり、僕ら一行ははぐれていたようだ。

 近づいてくるバスの中ではクラスの皆が『いたいた』と指をさしている様子が見て取れる。まるでサファリパークでライオンやガゼルを見つけたかのように。こちらからすればよっぽど檻の中にいるのはそっちだ、という気がしないでもなかったが。

 僕ら、はぐれていた面々は、バスから降りてきた各担任の先生に保護されてそれぞれのクラスに戻る。僕とひーちゃんも『矢野先生』という新任の先生に手荒く出迎えられた。

『どんだけ心配したと思ってるの』

僕ら『野際組』の能天気なはぐれ遠足は、各担任の先生方には顔が青ざめるような『迷子事件』あるいは『行方不明事件』だったのだ。
 相当の長時間に渡りバスで探し回ったらしく、皆疲れ果てていた。そんなバスの中に乗り込んだ僕は、まるでイタズラして首根っこを掴まれ吊るされてる子猫みたいに、運転席の真後ろの先生の横に座らされた。まさに借りてきたネコ。

 箱根を下り学校へ着くまで黙って小さくなるしかなかったが、矢野先生は、いつしか疲れ果てたのと安堵からか寝てしまっていた。寝顔の横顔にはうっすらと涙が流れている。化粧が禿げていてそれに気が付いた。
 子供心にも気の毒に、そして愛おしく守りたい気持ちになったのを覚えている。

 翌朝、はぐれたメンバーのうち、僕とひーちゃんだけは職員室に呼び出された。昨日のバスでの矢野先生の涙の一件を話して、一切言い訳せずに黙って怒られようと二人で決めて出向いた。
 代わる代わる色んな先生に叱られた。完全に首謀者扱い。いつものことだ。でも本当は言いたい。ペースは自由だったこと。皆について行けない子達が気の毒で一緒に歩いたこと。引率した野際先生に従っただけだということ。僕ら二人は一言も反論する事なく解放されるまで黙っていた。
 横で小さくなって俯いている新任の矢野先生は、きっと先輩教員達から糾弾きゅうだんされたことだろう。小学4年生の僕らにも想像に難くなかった。もう涙は見たくなかった。

 教室に戻った。皆口々に興味本位で職員室での出来事を聞いてくる。僕とひーちゃんは適当にあしらった。その沈黙は僕らを大人にした。子供ながらに掴んだその誇りとともに。

 あれ以来僕は、先生であれ、学校であれ、国家であれ、権威であれ…ただそれに従順になるのではなく、自分が正しいと決めた道を行くことにした。例えそれが結果として間違いであっても、ひょっとして死んだとしても、他人が決めたことに従って後悔や責任転嫁をするよりも、自分の決断で生きたい。

 『10歳で人となりは完成する』

僕の持論はここから始まっている。終わり

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