読書の益

最近思うことがある。
思ったより自分はずっと未完成だ。


学生時代の話をする。
それがよしとされたから、私はいい子で居た。
常にプラスに考えよう、人を恨まないようにしよう。そんな模範的な考えを鵜呑みにした。
そしてそう振る舞った。
振る舞えているのだから、身についている。
そう思った。

ただそれは、偶々実行できるような救いのある環境だっただけだった。
メッキのように薄く脆い模倣だった。


大学生になり、人を酷く憎むことを経験した。四六時中その人への呪詛を吐いていた時期が数年あった。
新社会人になり、仕事が出来ない、コミュニケーションがうまく取れない状況に置かれた。結果、集団内で大事にされない経験を初めてした。
いじめとはいかないまでも酷い経験だった。
職場での先輩を本当に恨んだ。
新しい環境で「その経験があるから今があるとプラスに考えられるね」と言われて全く飲み込めなかった。
クソくらえだ。何もかも。

本当に人が憎ければ恨み言を言いたくなる。
悪口は良くないと知っていても。
我慢すればストレスになり、何かが歪む。
我慢して、無理すれば実行できる、というのは、その考えを本当に飲み込めてはいないのだ。
ポーズを取っているだけだ。
それに気づいた。
ドリルの問題が応用問題になり、突然手詰まりになる感覚だった。

------

これだけだと救いが無い話だ。
そんな期間から時が経ち、少し変化があった。
私は本を読むようになった。短編等だが。
その中で、自分と全く違う人の、生々しい思考を知る機会が出てきた。
騒ぐのが好きな人。
すぐ怒り散らす人。
作為的な行動を上手に取る人。

そんな人の頭の中の1ピースを知った時、一部の思考に同意できる側面を感じた。
もしくは同意出来ないが、ただの趣味の違いだと知ることもあった。

その後は少し世界を多面的に見られるようになった。
その時、少しだけ、綺麗事ではなく…
なんと言えばいいだろう。

とりあえず、それがいいとされるから、雑にプラスに捉えるのではなく
自分の知識と照らし合わせ、その中から解決策、似た事例を思い出し冷静に考える。
そんな、地に足がついた思考を微量に得たのだ。
これはマウスピースを嵌めて、異物感に苛まれながら生活をすることから、食物を分解し、自らの血肉に再編成することへ変わったような変化だった。

それは私にとって喜ばしいことだった。
真の意味での成長と言える経験だった。

もっと沢山の現実の要素を本や社会から知り、地に足がついた、できれば少し優しい、でも搾取されない、そんな自分を作りたい。

今はそう考えながら、本のページをめくっている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?