空転劇場 Vol.3 所感

以下では勝手ながら幾人かの方々の名を連ねて評しているが、ここで書かれていることの一切は思想的な意味しかなく、作品の批評ではないことに留意されたい。

今回の空転劇場をひとつの観点から考えるにあたって、漠然としてしまうのを恐れずに、「自由」を主題として振り返ってみよう。無論空転劇場はひとつに取りまとめられた舞台ではないためひとつの主題において振り返ることに意味はない。しかしこの空転劇場はジャグリングにおける主要な人間が一堂に会する機会であったため、ここで「自由」の観点から語ることは空転劇場のみならずジャグリングを「自由」の観点から語ることとなる。

さて、まず自由それ自体について明らかにしておけば、自由というからには「何ものかからの自由」でなければならない。「一切の自由」というものが人間にとってありえないことは我々が身体を持つものであることに言及するだけで足りるだろう。生得的に与えられたこの身体は我々の意志によらないところのものであり、我々はここから離れることはできない。
しかし我々はこの身体に縛り付けられているために不自由なのではない。身体を持つために行動することができ、そのために自由なのだ。身体なき行動はなく、すなわち「自由」であることは常にある制限からの、「何ものかからの」自由である。
そういった事態を鑑みれば、渡邉尚さんの自由さの根源が見えてこよう。彼はこの制限に対して誰よりも真摯に向き合っており、それゆえに自由なのだ。
反対に言えば彼はその一点に突き抜けており、その他の点についてはその自由さに追従しているように感じた。すなわち彼の演技のすべてが身体とボールの自由のためにあるのであり、曲や動き方など彼の舞台における在り方というのはそこから演繹できてしまう。たとえば彼の演技は一貫して野生的かつ神秘的であったが、ではそうでない演技が彼にとってありえただろうかと考えると、考えにくい。であれば彼の演技中彼はもちろん渡邉尚自身であるのだが、同時に、またもしかすればそれ以上に、「軟体ジャグラー渡邉尚」なのである。

渡邉さんには後ほど戻るとして、話を進めよう。渡邉さんが自らの身体とボールから出発し自らの演技を確立しているのに対し、KOMEIさんやセクシーDAVINCIさんはまず演技があってそれからジャグリングがある。目指されるべき形があり、そこに素材としてジャグリングやダンス、パフォーマンスが配置されている。これは彼らの冠する「ダグル」や「セクシー」といった語を見ればわかるだろう。ダグルを背負っているから様々な道具を使うことがダグルの範囲を広げる意義ある行為となるのであり、またたとえ多少技の繋ぎが荒かったとしてもダグルの発展の一歩として意義深いものとなるのである。またセクシーに関しても演技中に行われるあらゆる行為はセクシーであるからこそ行われており、またセクシーでないものはあくまでセクシーの否定として面白いのだ。

とすれば、身体から出発した渡邉さんも演技から出発したKOMEIさん、セクシーさんも同じ結論に至ってしまう。すなわち彼らはひとりの演者である前にそれらの体系の代表者であるというものである。これは彼らの実力から言って妥当であるようにも見えよう。ただこれは同時に彼らの自由の限界を表すものである。

しかし、同じ結論に達していながら、渡邉さんにはこの論理が当てはまらない。なぜか。
それは先述の通り、彼が演技からジャグリングを引き出しているのではなく、ジャグリングから演技を組み立てているからである。
彼にとって彼の演技は彼の自由の結果立ち現れているにすぎない。つまり彼が限界を感じる彼の身体を否定し、より大きな可動域を持つ身体を手に入れた結果である。身体を否定することを知っているということは、自由を知っているということである。なぜなら「セクシー」や「ダグル」は抽象概念であり抽象概念の否定は無でしかないが、身体は具体であり具体は「何ものか」であるからである。自由が「何ものかからの自由」である以上、具体の否定は自由となる。つまり彼は現在軟体ジャグラーであるが、それは抽象概念としての軟体ジャグラーではなく具体としての軟体ジャグラーであり、いずれ軟体ジャグラーであることを否定し次なる自身へ移行する自由を持っている。反対にダグルをいずれ否定しようとしたときには、もはやダグルという概念自体が解体されざるをえない(ただし、ここでは軟体ジャグリングとダグルの比較ではなく渡邉尚さんとKOMEIさんの比較であることに注意されたい)。

そしてこれら二種のジャグラーの在り方を止揚し、その自由を実際に体現しているのが山村佑理である。
二種の在り方を止揚しているのであるから、山村はまず自由を保ちながら抽象概念を扱うことができる。山村に与えられる抽象概念とは「ジャグラー」である。このとき彼は他のジャグラーのように、その名目に従属することはない。なぜなら彼は具体としてのジャグラーであり、また彼をジャグラーたらしめている技や過去の演技を否定していくことによって、抽象概念の「ジャグラー」を常に書き換えていくことが可能であるからだ。たとえばJJF2011において彼の演技を観た者は、少なからずあれこそが彼の完成形であり、ジャグリングそのものであるとすら思ったことだろう。しかし実際彼は未だ進化を続けており、それはしかもジャグリングの枠自体を広げながらのことである。今回の作品で言えば、水を飲むことやその蓋を観客席へ吹き飛ばすこともその一貫である。これらが実際にジャグリングになっていく、演技の手法として広まっていくとは私は全く思わないが、こういった実験的行為を行えないこと、強く言えば暗に自らに禁止することというのは、それ自体が抽象概念に縛られていることを証明している。
こうして山村は「ジャグラー山村佑理」でありながら、ジャグラーであることを自己に従属させているのである。

また彼の演技を見れば彼が、自由であることとはいかなることであるか知っていることがわかる。たとえば彼は偶然性を愛している。登場から全てのボールを舞台に投げ出してしまい幕の中でそれを拾うこともあれば、偶発的な観客とのやり取りも厭わない。そもそも作品全体が明らかに練られているものではない。これは一見なおざりとも取れるが、自由が所与を受け入れたところからしかありえないことを知っているためのことだ。所与というのは「与えられたもの」であり、ここでは身体や世界、そして過去を含む。もし完璧に演技内容を決めてこなすのであればそれ自体不自由であり、またそれ以外の行為は失敗でしかない。失敗であれば演者はそれを所与として受け入れられなかったということになる。しかし山村の演技の場合にはおそらく全体が決められているのみであり、それでいて今自らが舞台に立っており観客がいるということ、自分が今まで練習してきたということ、生きてきたということすべてがそこにあり、受け入れられている。そのことによって山村の演技は技や一作品における価値を提示するに留まらず、彼の人生全体に一貫した価値を持たせている。

こうして山村は自由の体現者、すなわち語の強い意味での「人間」として舞台に立つことに成功している。彼は何かの代表であったり役割を持つ者である以前に、「山村佑理」であるのだ。


以上で空転劇場、引いてはジャグリングの「自由」に基づく思想的解明を終わる。
冒頭でも述べたがこれらは一切作品の善し悪しに関係しない。また思想的欠陥を指摘したものも間違った思想なのではなく、すべてがあった上で最後に自由が体現されるのであるから、すべては必要でありあるべくしてあるのだという点を強調しておく。

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