ながめくらしつ「心を置いて飛んでゆく」

ジャグリングが他のジャンルのパフォーマンスと同居するとき、まず初めに勘案しなければならないのは両者の非対称性だ。ジャグラーの前で多様な姿を見せる道具たちが、他の人間の前ではあまりにも貧相になってしまう。反対に、豊かな身体を見せるダンスやアクロバットに対して、道具なしで晒されるジャグラーの身体は乏しい。
共通言語が存在しないのだ。必然的に両者はただ並び合うだけで会話をしないか、なんとか通じるいくつかの単語を以って話を広げるしかない。

ただこれはお互いの言語を尊重する場合に限るということを、今回ながめくらしつは見せてくれた。
目黒は今回演者たちを特定の言語を操る強い個人としてではなく、ただ人間として、存在として扱うことでこの問題を解決したのだ。

「心を置いて飛んでゆく」において、全てのシーンにおける共通項として置かれていたのは制限や不随意性であった。空中から吊られて回るフープを避ける谷口は倒れ込むようであったし、邪魔をされながらもボールを投げるジャグラーたちや、倒れながらも他の演者に身体を投げ返されるハチロウなどから見て取れる。
このとき、ジャグラーの邪魔をしているダンサーたちやハチロウを投げる男たちは、なんら特別な動作をしていない。ダンサーとして、ジャグラーとして舞台にいるのであれば今彼らは何の存在意義も持っていない。しかし彼らは堂々と舞台に立っている。それが可能なのは、彼らがそれを可能にしてくれる他者と共にあり、そして関わっているからだ。当然、寝転がる目黒の身体はジャグリングしながら上を歩くハチロウなしにはありえない。
そしてある演者が他者に依存しうるのは、この舞台における共通項が不随意性であるからだ。もし彼らがただジャグリングを、あるいはダンスを行うのであれば、そこに依存する人間はただお飾りにしかならない。ジャグラーはジャグラーで完結してしまう。しかしここではそれを行う人間たちそれぞれがある制限のもとにあることを前提としており、そのために他者はその制限を与えるか、そこから解放しようとするか、なにがしかの居場所を持つことができる。ジャグラーに対してもジャグリング的言語ではなく、ただ身体を持つ人間同士として関わることができる。
他者に自身をジャグラーとしてではなくジャグリングする身体として発見させ関わらせる方法を見つけたこと、これが今回の目黒の発明だ。これこそがジャンルの壁を融解させ、今回の「心を置いて飛んでゆく」に多くの新しい表現、物と身体の、あるいは身体同士の関わりを生んだ源である。

今回の作品がこれまでと比べ一層統一感を印象付かせるのは、このためであると思う。
ハチロウもこれまでながめくらしつには似つかわしくないと思わせるほどの個性を出していたが、今回はうまく活かされている。また全体にソロらしいソロもなく、各シーンの親和性が高い。やはり技術ではなく存在そのものを見せていることによって、演者の個性よりも目黒自身の様式をより際立たせることに成功しているからだ。
この公演からながめくらしつが現代サーカスと銘打っているのも頷ける。ジャグリングを軸にしていようとも、もはや彼らがジャグリング的方法に則ることはない。ながめくらしつはここで、あらゆる表現を包括しうる根源的方法を手に入れたのだから。

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