頭と口旗揚げ公演 MONOLITH 所感

MONOLITH所感という題を冠しているが、ここでは山村の「ネタオーレンに捧ぐ」についてのみ、また本作の意義を矮小化することを恐れずに、ドロップの価値転換の観点から述べることとする。

山村の演技は旗揚げ公演に相応しく、カンパニー頭と口の存在意義を表すものであった。
前半、たくさんのボールは無造作に散らばっている。その中で彼はジャグリングをするのだが、時折ボールと共に彼の身体も床へ落ちる。自身の身体をボールと対等の立場へ立たせているかのようだ。ジャグリングにおけるドロップの価値転換は彼らの狙いのひとつであるが、これもその試みであろう。ただ彼の演技は次第に綻び始める。ドロップのひとつひとつは失敗でないにせよ、積み重なったそれらが演技全体を崩していく。
これはこれまで山村が行ってきた実験そのものだ。リドにおけるこの即興( https://youtu.be/2oRBVkaP6zU )にはそれが良く表れている。本作との重要な差異が見て取られるため是非一度観て頂きたい。以下でこの即興についての考察を挟む。

本作の前半と同様、山村はここでもよく倒れる。ドロップの価値転換という主題が共通している証拠であろう。そしてこの即興において演技が崩れていく様はより明らかだ。ボールを全て投げ上げてしまったり、繰り返し跳ねながら両腕をぐるぐる回したりする。これはジャグリングではないが、ジャグリング以外のなにかでもない。ただジャグリングの否定だ。確かにドロップの価値転換はこの否定を超えてしかない。ドロップを失敗であるとするのはジャグリング的観点においてであり、そしてそれとは別個の観点を打ち立てなければドロップは失敗にならざるをえないからだ。つまり問題があるとすれば山村がこの演技によって新たな観点を提示できていないことにある。なぜ彼はそれを提示できなかったのか、またなぜ提示できていないと言えるのか、彼の創作における実験の様子を細かく見てみよう。
彼が即興という形を取っていることに注目しよう。この即興を通じて彼はボールといかなる関係を築こうとしていたのか。この作品が即興である以上彼自身それを把握していたのではなく、その中で生まれ出ずるなにかを捉えようとしていたのだろう。すなわち自身がボールそれぞれにいかなる関わり方をしていくのかを自ら観察するための舞台であったと言える。だとすればここで見出されるはずだった関係とは、ジャグリングの文脈に依らない、山村とボールが一対一で築く関係である。言い換えれば山村がボールを動かし、ボールが山村を動かすといったような、対等かつ他を挟まない関係である。なぜならもし山村がボールをある法則に従わせたいと思ったとすれば、ボールが偶然に動いてしまうことは障害でしかなく、この作品が即興である意味はなくなる。またこれは即興であるのだからボールが演者の企図に従わないところこそが山村の狙いであり、身体も物である以上ボールと同様一切が企図に従うのではなく、これを尊重することによって対等な関係が結べるからだ。
しかしこの実験は山村にその関係を築く能力がないことを暴いてしまった。ここにはジャグリングをして山村が主導権を取るか、ジャグリングをせずにボールに主導権を渡してしまって山村が振り回されるかの二択しかない。そして葛藤の末、彼はボールを投げ捨てて舞台から逃げ去ってしまう。この二択の解決を見ない以上彼はボールと関わることができないが、ボールなしで舞台にいることもまたできないのだ。

「ネタオーレンに捧ぐ」に話を戻そう。先ほどの即興と本作の前半を比べると、ボールか身体かの二択に苦悶する姿はもうない。彼の演技は綻んでいくが、その綻びをこそ見せている。そして全てのボールが床に落ち、演技は一度綻び切る。
後半はそれらの再構成から始まる。それぞればらばらだったボールたちは2つずつ、そして3つずつの塊へとまとめられていく。彼はこの3つが壊れることを許さない。他のボールでジャグリングしている際にそれらを蹴り崩してしまったときには必ず今ジャグリングしている3つをまとめて置き、崩れた3つを使ってジャグリングする。この3つのボールへのこだわりは山村のジャグリングを一変させている。これまでの彼の演技においては、ドロップしても演技を続けることでドロップを失敗としまいとしていた。しかし技術としてのジャグリングの基本は3つのボールを必要とするのだ。ドロップののち2つのボールでジャグリングをし続けようとすることが彼にジャグリングに依らないボールとの関係を強制し、先述の崩壊へ繋がった。ところが3つのボールを常に使うよう規定しておくのであれば、彼がジャグリングからこぼれ落ちることはもはやない。すなわちこの3つのボールは彼がジャグリングを受け入れたことを示す。かつてのように身体とボール一対一の直接的な関係ではなく、ジャグリングを媒介しての関係を築く決断をしたのだ。
またそこでは延々と同じパターンが繰り返されている。ジャグリングはボールと身体があればできるものではない。幾度も同じことを練習して初めてジャグリングは可能となる。山村は同じパターンを繰り返すことによってそれが即興のような偶然ではなく企図されたものであることを明らかにし、ジャグリング的意味を受け入れる以上それが練習の成果であることをも受け入れなければならないのだと表明している。つまり即興のように未決定であることによってドロップを失敗とみなさないという消極的態度から、企図したところへ向かいながら偶然性に身を任せることができる、積極的態度へ転換したのだ。これによって山村はようやくボールと対等に舞台に立つことができるようになった。
では彼はかの二択を乗り越えたのだろうか。この作品こそが彼の新境地なのか。そうではない。彼がパターンの繰り返しをやめてから演技が終わるまでの時間は、彼の新境地を見せるにしては短すぎる。彼は未だその問いの手前にいる。手前にいながら、もう迷ってはいない。彼が彼の過去、現在を並べながら未来を描かなかったのは、後ろに渡邉が控えているからだ。

山村の場合と同様渡邉におけるドロップについて簡単に見てみよう。彼にとってはドロップは失敗ではない。彼は最初からジャグリング的意味体系の上にいないからだ。彼とボールの関係は徹頭徹尾彼の身体とボールによって編まれており、それは落ちたボールに対しても同様に開かれている。つまり渡邉は山村がかつて目指し到達できなかったあの位置にいる。
山村が頭と口を通してそこへ到達するとしても、渡邉のやり方を山村が真似ることはできない。渡邉のジャグリング自体を真似ることは彼の身体を持たない者にとって何の意味もないし、彼のように自己の身体とひとつひとつのボールとを共生させていくにはあまりにも膨大な時間が要る。これは山村に対してだけではない。渡邉のジャグリングはあまりにも個人的かつ直接的であり、他者と共有する技術として作られてはいない。そういった意味で、彼のジャグリングは技術であるよりも生態であると言われるのだ。一方山村はその代わりに、技術としてのジャグリングを有している。もし山村もまた渡邉と同じく生態と呼ばれるようなジャグリングをするのであったなら、二人はお互いに得るものがなかったであろう。二人は共棲する生物のように、共にありながらもあくまで別種であることを保ったであろう。しかし山村のジャグリングは技術としてのジャグリングである。つまり渡邉のように孤立しボールと身体のみによって形成されたものではなく、他者と共に育ち、他者と共有することを前提にしたジャグリングである。そして技術は他者から学ぶことができる。だからこそ彼はボールと身体の直接的な関係を築かずとも、他者として現れた渡邉を介して、その技術を発見することができるのだ。
すなわち頭と口とは、山村が渡邉を喰っていく様なのだ。そしてこのカンパニーが我々ジャグリングに携わる者に価値を持つとすれば、物と身体の世界に閉じこもっている渡邉を、山村という我々と同じ理を持つ者が征服するからに他ならない。その宣言こそがMONOLITHであった。

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