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小説・エッセイ「死にいたる噂」~噂の哲学風講談語りで、舌と心を鍛える口腔ケア。


 さてさて、お立会い。間もなく恋のチョコ咲くヴァレンタインデー。ちと趣向を変えて、実存哲学の祖、キェルケゴール先生の文体を騙り「噂、風聞、巷談」の語りをば、お愉しみいただければ幸甚に存じます。
                ※
 噂は、精神である。それは自己であり、一つの関係、否応なくその内部で自家撞着としてまとわりつく関係性である。噂は、死の超越と死の不条理との、自由と必然との総合であり、関係であるが、この段階では未だ真の自己に至っていない。ここでは二つの関係項は、第一義的かつ外的な消極性エリアに留まっている。
 つまり、心と肉体との関係は、精神活動のポジティブ性を欠いており、一つの単なる関係に過ぎない。これが自己に高まるためには、この関係をさらに包み込むような項が措定されなければならない。自分で自己自身を措定してもよし、神のような他者によって措定されてもかまわない。こうして第三者とリンクされた、派生的に措定された関係が、人間の噂なのである。
 故に、それ自身でも多重的に関係することが可能であるとともに、孤立的噂から脱却し、よりアグレッシブに他者と関係するような関係としての噂に変身しうるのである。そして、噂が精神であり、絶望という病をかこっている以上、絶望は本来的に二つの形式がありえる。
 第一は、噂によって絶望しても自己であろうとせず、己から逃れようとする絶望形式。これは先に述べたように、噂を自身で引き受けるべく、自分で自己自身を措定した場合である。
 第二は、当然、絶望しつつ自分自身であろうと欲する絶望の形式である。これは、噂の特別な種類なのではなく、己はもちろん、家族や親しい人間を巻き込むようなタイプの噂であっても、結局は己が引き受ける絶望という一点に分解・還元・収斂される、総体的な絶望なのである。自己自身と関係するだけでなく、全ての関係を措定したものと関係することで実現されるわけだ。
 逆に言えば、自己からの逃亡を企てながら、噂による絶望を取り除こうと全力で努力しても虚しい。努力すればするほど、さらに深い絶望の闇に落ちてゆくばかりである。
            ※
 新型コロナウイルスがインフルエンザ並みの5類に変わり、久しぶりに出社した。リモートワークでは手のつけようのない雑務を片付け、ひと息ついた時だった。
「六時半だぜ、帰ろ、帰ろ。どうだ久しぶりに」
 先輩の吉田さんが、エアでグラスを干した。
 居酒屋は賑わっていた。焼き鳥に刺身、ポテサラを注文し、マスクを外したり付けたりしながらビールを飲んだ。
 二人が勤めるのはリハビリ有酸素運動機器の商社。ともにアニメ好きで、新海誠ファン。珍しく相性のよい三歳違いの同僚だった。
「ところで田沢、近頃、営業部の山下部長に不倫の噂が流れているのを知ってるか」先輩の眼が少し充血していた。
「へぇ……」気のない返事をした。「関係ないすよ」
「驚くな。先週、差出人不明の暗号メールが社内に出回ったんだ。『eye hand = S・K・    hotel 見多』解読すると、こうなる。〝相手はSK(女のイニシャル)、ホテル、見られた、多くの人に 〟お前が結婚の約束までしてる彼女って、宣伝部の小柳沙希だよな、たしか……」
「冗談は止めてください!」マスクに唾をいっぱい飛ばして言い、僕は立ち上がった。
  翌日早朝、沙希を訪ねた。
「信じられるか。ふざけるにも程がある。六十にもなろう爺と不倫なんて」
 喉を詰まらせ詰った。
「落ち着いてちょうだい。根も葉もない噂よ。母と父の離婚問題がこじれて、相談していただけ。お願い、信じて」
 沙希は、見っともないくらい顔を崩し泣いた。
社内コンピュータで人事データを当ってみたが、SKに該当する女性は見つからなかった。
 瞼の奥を墨色の驟雨が走った。噂の真偽を判断するナビゲーターが溶けだしている。愛した女の本心さえ見えてこない。情けなかった。
「アイツのせいなんだ」胸の内で毒づく。「噂の濁流でびしょ濡れだ。早く脱がなくては……」
戸惑い、躊躇い、怒り、悔しさ……。三十三の男が、はじめて絶望の谷底を覗いた。
 社内の暗号メールは、相変わらず跋扈している。解読できないものも多かった。不安と恐怖が、階段を踏み外させた。僕は絶望の井戸の底へ真っ逆さまに転落した。
 しかも、噂の種は山下部長の他にもいくつもあるようだった。社会の、いや人間の果てしのない、絶望的な恐ろしさに全身の細胞が凍えた。
 二週間後、吉田から恐ろしいメールが届いた。
暗号はないが、地獄からの督促状に思えた。
『すまない。実は俺こそ、小柳沙希とできていた。ふとした過ちだった』
 堪忍袋の緒が切れた。
 沙希を問い詰めると、今度は躊躇わず真実を話した。ちょうど一年前、女子社員仲良しグループが飲み会を催した際、偶然、男同士で飲んでいた吉田とイタリアン・レストランで一緒になった。その夜、泥酔した吉田が暴力的に彼女を襲ったのが真相のようだった。
「こうなったら自分で自分を〝轢き逃げ〟してやる。絶望との格闘技も終わりだ」
 硝子に映る強張った顔につぶやいた。
吉田を刺し、沙希を突き、毒を飲む――登山ナイフをバッグに放りこみ、僕は部屋を出た。
                        〈了〉


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