「好き」が前提にならなかった話。
いつもはその月々で考えたことの振り返りのようなものを書いていますが、今回はこれまで書き溜めていた物です。
自分のセクシャリティの大元について辿っていくと、やはりこのタイトルに行きつきました。私は自分がセクシャルマイノリティに当てはまる人間かもしれないと考え始めたのは今から約1年ほど前の話ですが(このいきさつもいつかは形にしたいと思っています)、勉強すればするほどその「かもしれない」みたいな瞬間はかなり前から転がっていたなと感じました。これはその一番最初の「かもしれない」と思った瞬間から自認に至るまでを遡ったものです。
好きとは何ぞ。
そもそもなんですよ。そもそも好きとはなんだと。
もちろんこの世にはたくさんの好きが存在しています、好きな食べ物、好きな色、好きな服、好きな音楽、そう問われると特に考える事もなく答えられるんですよ。食べ物はお米と麺類だし、色は青と緑と黄だし、服はシンプルな物だし、音楽はゲス乙女。と欅坂、などなど。
ところが好き嫌いはハッキリしていると思っていたのに、こと人間について好きか嫌いかと聞かれるのがすごく苦手でした。
人一人の人生は一冊の本になると言われるように、その一人一人にはその人が抱えている物語が沢山あって、けれどもその物語の全てを他人が知る術はありません。自分の事を話す事が得意な人もいれば、苦手な人もいるというのももちろんですけど、何よりも本当に大切な事って他人にそう気安く話せないじゃないですか。私の場合は自分のセクシャリティがその「本当に大切なこと」に当てはまるのですが、これについて話したことがあるのはパートナー以外に居ませんし、パートナーに話したのもごく当たり障りのない部分だけなのです。(ごく簡単に自分はLGBTQ+に当てはまるんだ~という程度)
だから今私が見ているその人はその人の一側面でしかなくて、一側面が好きだからといってその人が好き(気が合う、友人になりたいかという意図)という事にはならないし、その逆で一側面が嫌いだからといってその人が嫌い(気が合わない、友人になりたいとは思わないという意図)とは言い切れません。と答えたくなるんです。
いやいやいや、そんな好き嫌いに対してそこまで深く考える必要は無いでしょうと思う人もいるかもしれませんが、私としてはそこまで考えてしまうのです。ただの対人関係に対してもここまで考えているわけですから、こと”恋愛的な意味での好き”についてはより深く考え続け、モヤモヤし続けてきました。
ここからは私の体感を軸に語りますので、あくまで一個人の例としていただきたいのですが、この「好き」は個人差はあれど、自然と周りに溢れ始めるのは小中学生あたりからだった気がします。そして高校生になると、まるでずっと前からそこにありましたけど。みたいな顔して恋愛的な「好き」が当たり前に転がっているのです。
私の周りの人のおおまかな雰囲気から察すると大体”恋愛としての好き”はとても自然と浸透していったように思いますが、私自身はどうだったのかといいますと。
正直、全くピンと来ていませんでした。
未だにはっきりと覚えているのですが、高校に入学してすぐの頃です。地元とは全く関係の無い学校に進学したので、周りは知らない子達ばかりの中で新しい関係性を築き始める時でした。
今でこそ年頃の女の子が集まれば、恋愛が話題に挙がることは自然なことだと思うのですが、当時の私には驚きでした。
そしてその手の話が進んでいく中で自分に話を振られて、率直に「正直、好きという気持ちすらピンときていない。」という旨を伝えると、クラスメイト達は優しく笑ってこう言いました。
「まだいい人に出会えてないんだよ。大丈夫だよ。」
当時の私はまだ自認していた訳では無いので、素直に「いつか素敵な誰かと出逢えば、恋愛をするのだろうか〜。」と呑気な事を思っていました。
その後、年齢を重ねると共に気がつくのですが、不思議なことに先程のクラスメイトの言葉は、驚く程多くの人が口にする言葉なのです。もちろん言ったその人に悪意などは全くありません、むしろ優しい言葉をかけてくれているくらいなのですが、私にとってその言葉はむしろ苦しくなる一方でした。
友達だって家族だって学校の先生だって「好き」なのに、一体皆が言う「好き」って何なんだろう?字面で見るとかなり面白い文になりますが、本当にこれをずっと心の奥底に持ったまま学生生活を過ごしていました。
よく恋愛的な意味での好きは触れたいと思う事など諸説ありますが、そもそも他人に触れたいと思ったことが一度も無い場合は何なんでしょうね、という段階でした。(同性の友人でも手をつないだり、ハグするのも躊躇うレベルだったので、実は潔癖症なのでは?と思ったこともあります)皆一体いつからそんな感覚をどこで覚えてきたんだいと問いたかったのですが、これはある種の精神論なので誰に聞いても理屈じゃないんだと真剣な顔で言われるんです。これを言われたときは、いやそんな曖昧な...!とかなりショックを受けましたが、もっとショックだったのは「人は誰しも恋愛という感情を持っている」という事が世界では当たり前とされているという事実でした。
高校時代でも恋愛はして当たり前という風潮にほんの少しあてられて、肩身の狭い思いをしていたのですが、さらに年齢を重ね大学生になると皆人並みに恋愛をしてきましたよというのが前提になっていて、男女が2人で一緒に居ればとりあえず恋愛関係を囁かれるようになるのでした。ただ顔を合わせたから、行き先が一緒だったから2人で歩いていただけかもしれないし、当人がお互いをどう思っているかなんて、その二人自身が決める事であり、その他の人間には特に関係のない話であることがほとんどなのに、周りの人間が憶測や妄想であれこれ言うなんて不思議だなあというのが正直な感想でした。
そして大学生になってから物凄く増えたように感じたことは、中高時代よりも圧倒的に「恋人はいるのか」と聞かれたり、「女だから」「男だから」みたいな先入観で話を進められる事の多さでした。前者に関してはもう妙齢だから~といった感覚で聞いてくるのかもしれませんが、なによりも初対面でこれを聞いてくる人の多い事。他にもう少しマシな話題はなかったのか、それとも単にそういう類の話が好きな人が多いのかわかりませんが、めちゃくちゃ聞かれるようになってげんなりした記憶があります。
後者に関しては大学生は世間一般的には学生という身分になりますが、年齢としては十分に大人として扱われることが多く、社会に片足を突っ込んでいるからかジェンダーの波がものすごい勢いで押し寄せてくるように感じられるのではないかと考えていましたが、今改めて考えるとこのモヤモヤに関しては私自身のこころの性がXジェンダーである事からくるものでした。しかし自分が自分自身をどのように認識しているのかというこころの性は自認していても、恋愛・性的指向に関してはまだしっくりきていない状態でした。セクシャルマイノリティとして有名な物はLGBTQ+と挙げられますが、その頃の私が知っていたのはLGBTQのみだったので、恋愛対象が異性なのか同性なのか...?と何度も自問自答するものの、その度に「いや、どっちもしっくりこないぞ?」と腑に落ちていませんでした。
自分自身が男でも女でもない、ただの人間という生物でいたいという考えからXジェンダーがしっくりくると気が付き、同じような考えを持っている人と情報交換や交流をしてみたいと思いTwitterを開始しました。その後さらにセクシャルマイノリティについて勉強していく中で、アセクシャル・アロマンティックという言葉にたどり着くことが出来ました。(ものすごく簡略化しましたが、この過程に関してはまた別の機会に)
世間では持っている前提になっている「恋愛感情」を持ち合わせていない、という事は自分が何か人間として欠落しているのではないかと考えたり、周りの感覚に違和感を覚えたり、ピンとこない事が多い事に寂しさを感じていたことはおかしい事ではなかったと、やっと知ることが出来て落ち着いたように思います。
マイノリティの生きづらさというのは、社会の中で見えない物として扱われているということからきているのだなと、セクマイを自認して生活している今思います。社会の仕組みを変えられるほどの力は私にはありませんが、自分の目に見えている世界だけが全てでは無いという事は心に刻んで、日々を過ごしていきたいと思います。多様性があたりまえになりすぎて、多様性という言葉自体がわざわざ使わなくてもよくなるような世界になってほしいと切に願います。
同じような感情をもっている人も、そうでない人も何かの気づきのきっかけや参考になれば幸いです。長々とお付き合いいただきありがとうございました。