自然放たれること
書き忘れてるのを思い出して、こんな時間に書き始めてみる。
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル)の中に、こんな一節がある。「積った雪が竹の笹から落ちるように、射は射手がい離そうと考えぬうちにおのずから落ちてこなければならないのです。」(P.86)
なんのことかと言うと、放れ、弓から矢が放たれることを意識せず、自分自身の意識を手放して、自然と放たれること、そういう状態が弓の極意であるそうです。
『「する」と「なる」の言語学』では、この、状態が「なる」的であるとしています。
ヘリゲルは射撃をやっていたので、的を狙って打つことに慣れていて、この態度でやった際に、師匠に叱られます。「する」的に行うのではなく、自然と「なる」ことを是としています。
ユング心理学でも、因果律ではない規律として、意味のある偶然の一致、同時性を重視している。(『ユング心理学』(P.241))「何が原因であるか、という点にではなく、何と何が共に起こり、それはどのような意味によって結合しているかという点が重視されてくる」(P.242)。
みーあんさんの生誕では、たまたま音源がトラブって、アカペラになったた。それをメンバーがフォローする。一番グループに馴染もうとしなかった(本人が「仲良くする気が無かった」と言っていた)メンバーの生誕で、そういうトラブルが起きる。当然それは偶然なのだけど、たまたま、偶然に起きたことで、メンバーの絆の深さを感じた。
因果ではない、別の形で、そういったものが読み取れたのだった。
たぶん、「なる」的感覚は東洋的で、日本的なのだと思う。そして、それを私は意識しているところがある。
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