いっぱい与えられること

『愛するということ』では、自然との一体感から離れていく過程で、つまり、動物的なところから人間になるところ、不安定であり孤立感を得ることになる、と書かれています。そして、この孤立感から逃れる究極が愛なわけですが、それ以前に、一時的な手当として、いくつかの方法が書かれています。

生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感はではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。だから、いずれも、実存の問題にたいする部分的な回答でしかない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある。

『愛するということ』p.35

アイドルのライブで、アイドルを見ずに騒ぎ散らかしている人たちがいる。なんとなく、「祝祭的な融合」なのではないか、という感じがする。乱痴気騒ぎ。外界を塞いでしまうこと。

ただ騒ぐのではなく、与えること。ここに、アイドルに対する愛がある。さあやさんが、大きな会場で、大勢に向かってやると、エネルギーをもらえる感じがする、と言っていた。ファンがアイドルにエネルギーを与える。

愛と言っても、熟慮の末の愛と共棲的結合とに区別している。前者が好ましい。後者は、マゾヒスティックなものとサディスティックなものとに分かれる。

マゾヒスティックな愛、受動的な共棲的結合は、服従によっている。無条件に受け入れることであり、宗教的なものに例えられている。偶像崇拝だ。ひたすらに「大好き」を叫ぶファンに、この愛を見る。

その支配者がすべてであり、いっぽう自分は、その支配者の一部だという点を除けば、無である。

同書P.37

マゾヒスティックな服従と、サディスティックな支配は対照的である。サディスティックな愛も、実のところ、好ましい愛ではない。

愛には、創造的な、与える力が必要である。豊かでなければならない。豊さはいっぱい持っていることではなく、いっぱい与えられることであるのだが、とにかく、この成熟した愛によって、人は自然から離れ行く孤独感をいやすことが出来るのである。

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