センスと「夢と数」
『センスの哲学』を読んだ。千葉先生は、だんだんと文体が軽くなっていて、『メイキング・オブ・勉強の哲学』や『書くための名前のない技術』(Tak.さんの著書)、『ライティングの哲学』を通じて脱力していったのが目に見えるようだった。『意味のない無意味』などで書かれていた分身の変奏のようであって、そういえば反復について明確に書いているのあったっけか、と思いながら読んでいた。僕が読み切れていないので、この辺りは定かではないですが、いつだか、反復について考えていこう、というようなツイートを見かけたのを思い出した。
センスのうねりとビート(差異と反復)からアンチセンス(身体による別の反復、と考えたけどこれが合っているかは分からない)への切り返し、意味でないもの(非意味というのが近いのかな)とそこから意味への回帰なのでは、と。構造的な楽しさというのは、タイトルや歌詞に注目するのではなく、バッハの旋律の作り込みだったり、ベートーヴェンのモチーフの展開だったり、ポップスのスネアのリズムの変化だったり、そういうところに着目することなのでは。そういえば、僕もそういう見方をしていている時があって、ああ、言語化するとそういうことなのかな?、と思った。
アンチセンスの章で武満徹を思い出していた。タケミツトーン。いろんな曲に共通して出てくる、オーケストラにペダルしたような音。武満はピアノで作曲を始めたはずだ。黛敏郎からピアノをもらって、そのピアノをゆっくりゆっくり弾きながら、少しずつ書いていった、とか。レントの作曲家だと書かれていたし、本人もそう書いてたと思う。アレグロがない。そしてベースがない。日本的な、そういう音がアンチセンス的に反復していると言えるのかもしれない。
武満は、創作について夢と数、ということを語った。夢、イメージがばーっと膨らんでいって、無限に音が溢れてくる、これを数、つまり規則なり論理で一定のものとする、これは『動きすぎてはいけない』の接続的-切断的なものと似ている。あるいは『意味がない無意味』の穴とふた。あれも、意味の無限を行き過ぎで分からなくなることと思考停止になることと、ある意味で、意味を前提として無意味となることの話だったと思う。
僕の理解が合ってるのかは自信がないのだけど、もし考えてることが近しいなら、武満の創作は意味がない無意味なところがあるということなのかもしれない。そこには、身体の問題がある。意味を跳ね返す身体が。
武満は、エッセイで「子どものような純粋な耳」ということを語っていた。純粋に音を聞く。それはセンスである。それでも僕らの耳は汚れている。音楽理論によって、もしくは世間で音楽が音楽として流れることによって、音そのものを聞くことが叶わなくなっている。そこにアンチセンスがある。
という感想を得たのだけど、まあ、やっぱりよく分からないというか、つかめていない感じがするので、何度も読み直すと思う。そのうち分かってくるのかもしれないし、分からないかもしれない。分からないような気はする。でも、まあ、それでもいいや、と思いながら。
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