僕の享楽 観察・周縁

観察すること

「こっちが見てたけど、全然見てなかった。何見てるの?」とか、「レス送ったけど気付かなかった」とか言われるのですが、この「視線」や「レス」が分からない。その理由のひとつとして、僕はパンフォーカス的にライブを見ているのだと思います。

パンフォーカスとはカメラの用語で、近くも遠くもピントが合っている写真のことを指します。いわば、全景と言ってもいい。僕は、ライブの全体を見ようとしている。

もう少し具体的に書いてみましょう。僕はライブ中に、誰かを追いかけるような見方をあまりせずに、ステージ全体を見ている。全体として、どのように動いているのか、その中で、個人がどのように動いているかが見えることがある。そして、それ以上に、フロアの動きも見ていることが多い。誰かが飛び跳ねている。サイリウムを振っている。そういう様子が見えている。
そうした、複数の焦点でライブを見ている。

だから、ステージから見た時に、僕が特定の誰かを見ているように見えないし、逆に僕はステージステージのアイドルが自分の方を向いているかどうかが分からないのではないか。

当然、物理的な意味で、レスが分からないということもあります。

そもそも、レスは後方にいたら物理的に気付きにくいのではないでしょうか。というのも、1つ足りない賽は投げられた、通称ひとさいの、撮影可能なライブの動画をTiktokにあげてる人がいました。彼女たちの動画は、最前で撮ったもので、その動画を見ると、ああ、こっち見てるな、とありありと分かるわけです。

おそらく、顔がこっち向いていると思う範囲は、距離によって比例的に広がっていくのだと思います。

距離が近い最前だと顔が向いている、つまり正対しているのが分かりやすいから、自分宛のレスだと分かりやすい。でも、遠いと正対しているのが自分なのか、隣の人なのか、はたまた後ろの人なのか分かりにくくなります。自分に視線が来ているのが分かりにくいわけです。

講演をするときは、客席全体の上に視線でZの字を書くことを勧めている本がありました。これは、客が目が合っているように錯覚するため、親近感を抱いてもらいやすい、ということでした。視線は本当に向いてなくても、向いてるように見せることが出来る。近い場所より、遠い場所の方がそうなりやすいのでしょう。

このような理由も含め、パンフォーカスにライブを見ることで、より、視線というものが曖昧になっているのではないでしょうか。

ミクロな視点は開かれていって、メソに、マクロに、ライブという場の中に溶け込んでいく。僕は世界の中に(孤独に)存在している。ステージと自分という繋がりではなく、その外に立ってステージを観察しているのです。

周縁を歩く

僕がジャズをやろうと思ったのは、ジプシーミュージシャンがジャズをやっていたからだった。サークルでよく話題になっていたマイルス・デイビスやキース・ジャレットではなく、話題に上がらないブラッド・メルドーやE.S.Tに夢中になりました。

思えば、ポピュラーなものを避ける傾向があった。アイドルやポップスを通らなかったのは、その天邪鬼が原因でもあります。中心をあえて外し、周縁を歩く。境界を遊ぶのが僕の楽しみ方だったわけです。

コルダでお世話になった、no conceptとWill Never Stopというアイドルをやっている織原レイさん。まあ、美人でかわいいのですが、僕はあえてそこには触れずに、つまり中心ではなく「おもしろい人」という点に注目していました。

だから、僕にとって、織原レイは「やんちゃな少年」です。

いたずらな表情でごんじりを食べ、いわゆる「やらかし」の瞬間に「あっ」という表情をする、それを僕に見つかってすこし照れくさそうにする仕草が、僕にとっての織原さんなんですね。

そんな織原さんを撮影する。人生で初めて撮影会に行く。かわいく撮影するために、かわいいを再発見する、そのプロセスの場。撮影した写真を見返すと、自然な雰囲気の写真の方が好きだな、と思いました。

人間は生きているから素晴らしい。人形のように切り取られた瞬間でしかないラミカはあんまり好きじゃない。ぴなふぉあに通い出した頃から、その価値観が僕の中には強くあります。

だから、キメていないキメ顔を撮りたい。素の表情、素の仕草が滲み出るものがいい。撮影時に意識していたわけではないが、撮影的在り方と日常的在り方の境界を撮影したかったのでしょう。そんな価値観で、僕は織原さんを撮影していたのだと思います。

織原さんはやっぱりプロフェッショナルだな、と思いました。。普通なら撮影する主体は僕のはずなのですが、織原さんが「撮影される」という行為の主体として、場をリードしてくれていた。織原さんが主体であったからこそ、僕は彼女をうまく撮らせていただいた。
「いいよ、上手だよ!」
おだてて頂いて(私もチョロいので)いい感じに乗せてもらっていた。自然に撮影できる空気感を作れるのは、「撮影される」プロフェッショナルなのだと思います。

そして、僕は織原レイの美しさを知った。

高山洋平が、カウンターカルチャーが分かるのは、カルチャーが分かるからだ、と書いています。周縁の良さは、中心を知ることで、より分かるようになる。

ブラッド・メルドーを聞いて、彼の演奏しているロックを聞くようになる。そして、日本のポップスも聞くようになり、その良さが分かるようになった。それはそのまま、ブラッド・メルドーの良さの再発見につながっていった。

撮影会を通じて、織原さんのかわいさを再発見することになりました。それは織原さんの周縁を際立たせます。「やんちゃな少年」は、写真の中を生き生きと躍動しているわけです。

僕の享楽

そんな周縁へのフェチズムがアイドルを見る場面にも表れています。

例えば、ひとさいのライブ。
僕は利き目が左なので、比較的右側後方にいることが多いです。そうすると、MC中は比較的高須賀さんや峰島さんがファンの方々に笑顔で手を振ったりしてるのが見えるわけです。ワンマンかな?高須賀さんがうちわのお嬢さんにうちわパタパタするジェスチャーをしたり、峰島さんが手話で何か会話してたり、みーあんさんが誰かを見つけてくしゃっと笑って手を振ったり。そういうのが、なんか、良いな、と思います。ライブ中も、いろいろな場面があります。ジャズのインタープレイのように、アドリブで掛け合い掛け合いが行われていく。それはアイドル側からファンの場合もあるし、ファンからアイドルの場合もあります。
結婚してって言われたのか、さあやさんがミッフィーの真似をしてバッテンしたり。冬野さんが叫んだファンの方に何かして、そのファンの方が膝から崩れ落ちていました。
「行かないで―!」という声に「行くよ~」と答えるさあやさん。

メンバー同士でも、掛け合いがあります。
峰島さんが高須賀さんにちょっかい出して「いやあ」という感じで避けられらたり。これは、高須賀さんが黒髪ぱっつんにした直後はさあやさんもやっていました。MC中、みーあんさんは高須賀さんに身だしなみを整えてもらう場面があります。現場では見れてないけど、冬野一本釣り事件も、実際に見ていたら、げらげら笑ったでしょう。

物販列が他のグループにかかっていて、それを見てたのかは分からないけど(たぶん見てたと思う)、峰島さんとスタッフの方がファンの方々の列の並びを直してました。同人即売会で、お客さんに隣の島にかからないようにしてもらうように。そういえば、いつも前の方にいる男性の方?が、こぼれた飲み物を片付けていました。

写真撮影可の現場だと、ステージよりも、フロアも含めた全景を収めたいと思うし、天井に引っかかっちゃったクラッカーのビニールなんかを撮りたくなる。

僕は、ライブ自体というより、メンバー同士だったりメンバーとファンだったりのコミュニケーション、インタープレイであり掛け合いを見ている。それが好きなんだと思う。パフォーマンスから、その周縁に広がる場を見ている。

そこに、僕の享楽はあるのでしょう。

動かないこと

冬野さんがテンポを間違えて、テヘッてしていて、もーこの子は、というノリで高須賀さんが頭をポンとしていて、こういうのがライブを見る楽しみのひとつだと思う。

こういう逸脱は、ひとさいは多い方なのではないか、と思います。これは悪いことではありません。戻って来れればいいのですから。

昔見たテレビで、「傾いて戻ってくるのが禅だ」と言っている禅僧がいました。真面目に座っているつもりでも、ついウトウトしたりして体が傾いでしまう。ハッと元の姿勢に戻る。この、正しさから外れて、また戻ってくる過程が悟りであり禅である、と言うわけです。

逸脱と復帰。

ドゥルーズは反復を差異のある繰り返しだと言ったそうですが、その意味でライブは反復です。同じようで違っている。この差異が、ひとさいは比較的大きいように思います。だから、あえて逸脱と呼んでみる。レスも逸脱だし、間違えて直すのも逸脱です。

そもそも、正解なんてないのかもしれません。いつだってブレている。でも、まあ、それでいい。

『あっぺんだん』はひとさいっぽい曲だと思っています。逸脱して戻ることはあっぺんだん(up&down)であり、差異を含んだ反復なわけです。波のように。リズムを鳴らしていく。

もう少し大きな視点に立てば、失敗して立ち上がって前進すること、それも逸脱と復帰です。それこそ、『Re:Start』や『仄暗い闇の外から…』の世界線なわけです。みーあんさんの生誕では、曲が止まるハプニングがありました。でも、みんなでなんとか乗り越えた。トラブルがあっても立ち直る、それが絆のストーリー。

まあ、そんな風に、妄想的に全体的なストーリーを考えてみる。歴史は歴史家の目を通して評価されるように、僕の目を通して評価している。僕の価値観が大いに含まれています。

その根本には、周縁を歩くことがある。
中心ではない、外から観察をする。

どこか、別のところへ遊びに行く、別の島へ行くイメージ。友達を見つけて、あ、いると思って帰ってくる。友達に話しかけもせずに、その他の島へ乗り込まず、ぐるぐる回って帰ってくる。

僕は、他のノリを観察して、また自分のノリに戻ってくる。根が生えたように動かない。ライブや飲み会でも同じです。みんなが動いてランダムに接触していく時に、僕は、根が生えたようにそこに居続けるわけです。動くことを怖がっている。他人との接触を。他のノリへ行くことを。

だから、僕は動かないことで、周縁を歩いている、と言えるのかもしれません。他の島から独立しながら、バランスを取っている。

そんな風に考えていくと、もしかしたら、僕の価値観の根本には「動かないこと」があるのかもしれません。観察すること、周縁を歩くこと。そして逸脱と復帰。これらは、止まっていることから派生しているのかもしれません。

そう。
天動説のような確固たる自我を。

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