東京も東北

「上野の駅前は仙台駅と同じ風景」と高校の社会科の先生が言っていて、東京なんてのは地方の人の街なんだ、という事を言っていた。それはそれで、一理ある。都市は地方で生産されたものを消費する場所だ。それは人間ですらそうなのかもしれない。誰だったか、地方で増えた人口は都市に行って消費される、という事を書いていた。北海道でも、全体では人口は減っているが、札幌は人口が減っていないらしい。地方都市として、周囲の人間を取り込み続けている。

東北地方から上京して働く人間は多くいた。上野駅に、汽車でやってきて、各地に就職していく、そういう光景が昭和の時代にはあった。その意味で、東北は東京のための生産地でもあった。そういえば、福島原発も東京電力である。

いぎなり東北産を最近聞いている。その中で、『東北ちゃんぷるー』という曲がある。『東北産万博』という2024年のアルバムに収録されている。なんで、東北でちゃんぷるーなのか。沖縄に憧れる、という歌詞なわけだけど、沖縄への憧れは、東京における異国情緒のひとつとして扱われることがある。

それまでの、東北から東京への遠さ、そこに、東京への憧れがあった。『あまちゃん』でもそうだけど、上京して夢をかなえる、という意味もあるし、何かがある場所としての、田舎から大都会への憧れがどこかある。東京にも拠点を置いて、その意味でいぎなり東北産は上京して東京人になってしまった、と考えることも出来る。そうすると、東北にとっての東京という遠さはなくなり、別の形で異国情緒を歌う、それが沖縄になった、とも考えられる。

これは、曲を歌う側だけでなく、聴く側も関係するのかもしれない。東北の人間にとっての東京と、東京の人にとっての東京は違う。東京人にとっては、単なる日常でしかない。東京の人に聞いてもらう曲なのであれば、それとは違う、別の異国情緒を提示する必要がある。

となれば、結局のところ、東京も東北になった、ということなのだろう。某方が「天一を歌わない!」と怒っていたが、たぶん、東京で東北のことを歌っても、意味がないのだと思う。東北で東北のことを歌うことと、東京で東北のことを歌う事は意味が違う。そこには、アイデンティティの問題があると思うのだ。『わざとあざとエキスパート』や『沼れマイラバー』は、SNS的だとも思うけれども(たまたま流行ってるから、かもしれないが、その前の「かわいくてごめん」の曲も、似た部類である)、東京のキラキラに染まっていく、そういうことを思う。まあ、それはそれで良い悪いは別として、とにかく、田舎娘が上京して変わってしまったような、そういうマンガの絵を思い出すのである。

東北で東北の歌を歌えるのだとしたら、東京で東京の歌を歌えるのではないか、と思うが、僕の考えでは、東京にアイデンティティはない。というより、都市にアイデンティティはない。人々が行きかい、去っていく、その場でしかない。『あまちゃん』は、東京で夢を消費して、夢破れ、故郷へ帰った。そんな名前のない物語がたくさんある。根っこが無ければ、その土地に根付いた歌は歌えない。土地と人間が結びついているからこそ、なのだと思う。

しかし、東北から東京に出て、東北だけでなく東京も拠点にする、商圏にする、というところだけど、その範囲について考えてみると、結局のところ、JR東日本じゃないかとも思うのである。意味のない区画の様で、なんやかや、国鉄が解体されたあの括りにはそれなりに意味があったのかもしれない。

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