話のおもしろさ。

養老孟司の動画を見て、内容は、理性と感性の対立で、感性を重視する、というありがちな論なのですが、その論の立て方、というか例えが面白いなと思いました。

最初に、方程式が解けない中学生の話をします。方程式にアルファベットが出てくる。数字とアルファベットが混ざったら計算できない。解答がa=bとなる。これが許せない。これは、数学的な概念と言語的な概念の対立だからです。これを同じにしてしまう事が許せない。個々が違う、ということは感覚です。そして、個々をまとめていくこと、同じと扱ってしまう事、これが理屈です。

a=bが許されるなら、何でもありになる。それが許せない。その許せなさが倫理だと言います。

同じ=の話として、りんご=みかん、つまりまとめてしまえば果物、の例を出します。世界はa=bの方向へ行っていて、それがコンピューターの世界だと言います。

コンピューターが人に似てくる、と言う人がいるけれど、それは人が何か分かっていることが前提にある。そもそも、人が何だか分からない、女房のことよく分からないぞ、と(笑)だから、逆に人がコンピューターに似てくるんだと言います。その例えでカラオケを出します。昔はカラオケのバンドがキーを合わせてくれた。今は、機械のカラオケに人が合わせて歌わないといけない。同じことを繰り返すの は、コンピュータ、理性の範囲になってくるわけです。

木の葉のように、自然には同じものはありません。個々は別のものですが、それをひとまとめに「木の葉」にしてるのは、人間です。同じにしてしまうことは概念です。概念と概念を戦わせること自体、間違っていると言います。

みかんとりんごは食えば違いが分かるけど、正義と正義は概念同士だから違いが分からないし、戦わせようもない。そういうもので切った貼ったやるのはバカだと言い切ります。

もともとは、「普通なんてものはない」というところから始まっています。つまり、問題は「普通ってなんですか」という話ですが、「普通は概念の中の存在だよ」と言うわけです。概念を比べても意味がない。

養老先生は、理性はまとめること、感性は区別すること、という二項対立を考えられています。画一的なコンピュータといろんな状況に合わせることが出来る人間、もその対立に含まれます。この話をするのに、方程式やカラオケなど、ちょっと遠いように思える例えが出てくる、それが面白いなぁ、という感じがしました。

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