ほんのちょっと踏み外した先に
人殺しを異常者のようにテレビは報道するけれど、僕は紙一重のような気がしています。『少女首狩り事件』で出てきた犯人のように、普通の人が一線を越え犯罪者になる、それは別に特別なことではなくて、ほんのちょっとの差なのではないか。だから、テレビの犯罪者は、一歩踏み外した自分の姿でもあるわけです。
高須賀さんの炎上で、罵詈雑言を言っている人がいる。ひとまず、炎上については、社会構造として、非モテのひがみのようなものを考えています。自分たちのような不遇であったアピールをするリア充に対して、自分のさらなる不幸を自慢する。
「俺の方が不幸だ!恵まれているお前たちが不幸面するな!」
日陰を歩く、というより日向に出ることすらできない、そういう立場の人たちのひがみがあるように思う。この場合、高須賀さんがどうかということは関係なくて、「リア充のように見えて、たまたま攻撃しやすかった」という不幸な偶然によるものではないか、と思うのです(それで済むような問題でもありませんが)。
この辺りに、大きな物語として、社会なりシステムへの攻撃をするところから、もっと矮小な物語に終始しているところかもしれない。岡田斗司夫は、この辺りを、AKBの娘がのこぎりで襲われた事件を例に出して、「社会に対するテロではなく、AKBというハコが無いと生きていけないようなむしろ弱者の女の子を襲う」世界の狭さと想像力のなさを危惧しています。
僕もどちらかと言わずとも、間違いなく非モテの部類にいるわけで、どこかしら斜に構えているところがある。
アイドルやメイド・コンカフェ嬢に対しても、どこか「お客だからしゃべってもらえている」感覚がある。お金を介さなければ話してもらえない、という意味ではなく、お客として話し始めたからこそ知り合うことが出来た、また、お客として通っていたから仲良くなるまで話すことが出来た、という感覚がある。そういうきっかけが無いと仲良くなる事すらできなかった、という感覚。「前提のある関係性」のようなものを思い浮かべるわけです。
非モテのひねくれ方というのは、何となく諦観のようなところがある。結婚なんて大それたことは諦める。というより、もはや他者との関係を作ることを諦める。人間嫌いの様相を呈してくる。なんとなく、僕はそういう感じが分かってしまう。
だから、一歩その線を乗り越えれば攻撃する側にいたかもしれない、とも思うのです。テレビの中の犯罪者のように。
例えば、こういう連ツイをした。
これも、「歴史的な経緯を知らずに美人がオタクのコスプレをしていること」に対するネガティブな感情を書いているわけであって、構造としては「非モテのひがみ」なわけです。引用して「オタクはそういうもんじゃない!」と言ったとしたら。
何となく、非モテのひがみである、ということを考えると、僕の中では辻褄の合うところがある。だから、ひとまず、非モテとリア充の対立をこの問題を分析する上での中心に据えているわけです。
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