まじめについての発散的連想的練習曲
さあやさんが「まじめって言われたことあまりない」と言っていて、ファンの方々が「まじめだよ」と言っていた。
「まじめリーダー」と紹介されているにも関わらず、まじめでない、と言う。そもそも、まじめであることとはどういうことか。自分自身のまじめさと、他人から見るまじめさは違うのか。
少し、ふまじめな僕が、まじめについて考えてみようと思う。発散的に、連想的に、練習曲。
まじめはいくつか分かれるのではないか。ストイックであること。規律的であること。神経質であること。とりあえず、それらを考える。
ストイックであること。自分の理想に向けて、ひたむきに何かを行うこと。さあやさんのアイドルに対する姿勢がただアイドルらしさにひたむきであるなと見えるならばまじめであると言える。
常に努力し続けることはできない。常に努力していることは努力していないことと同じである。努力という、力の発揮がないのだから。
だから、まじめをこじらせるとふまじめになる。努力をふとやめた瞬間に、怠けている自分がまじめを妨げる。
ルールを守るということ。赤信号では誰もいなくても立ち止まる。決まっているものは決まっておる、だから、それには従うべきである、というまじめ。枠からはみ出ないように、線の中に閉じこもる。冒険をせずに引きこもる。精神的なサナギの状態。ある時、不意に動き出す。殻を破って、まじめを壊していく。逃走線。ギャル男のチャラさのように。まじめを打ち砕く、そして親和的な、ギャル。
ギャルの漫画が描かれている。ギャルはもはや存在しない。ファンタジーで描かれるということは、もはやリアルではない、ということだという。いない、というのは言い過ぎかもしれない。珍しくなってしまった。そして、ギャルではないが、ステレオタイプなギャル的な要素が独り歩きする。まじめさにギャルが混じる。ヤンキーでもいい。逃走した先でのリゾーム。新たなまじめに取り込まれていく。
神経質に。手をひたすらに洗う。不潔であるかのような妄想に駆られて。痩せているのに痩せなければと言う。太っているかの妄想に駆られて。頑張っている。努力している。しかし、悲しくも妄執的。まじめに生きている。しかし、その実、自己破壊的である。
狂っているということは、出鱈目だから狂っているわけではない。狂人はどこまでも理性的だ。チェスタトンは書いている。しかし、妄想に取り憑かれて、その理性的な、どこまでも理性的な行動は、狂ってしまっている。まじめであることは肯定的なだけではない。否定的な面もある。
肯定的なことを書いていこう。まじめであることは、細かいことでもあり、ミスをしにくい。過ちを犯さないことは、まじめの良いところだ。細密画のような職人性。
まじめであることは、他者を寄せ付けないことだ。自分自身の中でルールがあり、それを遵守する。そう考えると、そこには、ある種の完璧主義的な、塗り絵をきれいにきれいに塗りつぶすようなところがある。
他者から見たまじめさは、その一端に過ぎない。いや、一部を見て全体を見た気になっている、と言ったほうがいい。完璧であることは完璧でないことだ。唯一神は、そのすべてを掌握する。完全なものだ。しかし、聖なるものだけでなく、不浄なものですら引き受けざるを得ない。その意味で、神は完全なのに不完全にならざるを得ない。
まじめも同じである。まじめさはふまじめさなのだ。そして、皮肉なことに、それを一番よく知っているのは、身をもって体験しているのは、まじめだと言われる人間なのである。
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