「自然体」であること ~感情の動くとき~

感情が動くとはどういうことだろうか。『感情の哲学』では、感情を「価値を捉える思考と、価値に対処するための身体的な準備」だとしている。
みくさんは僕のことを「ウィキペディア」と言い、たてみんさんも、感情がないかのように扱う。どうも、たてみんさんは感情が喜びか悲しみかに振れている気がする。無茶な話をされて、僕が困惑している表情が……マスクで見えないんだろうな。困惑、というのも感情である。

嫉妬深い、というのがこの間の心理テストで出ていたけれど、そういう傾向はあるので、そういう時に激しい感情になりがちである。そういうのは良くないとおもいつつ、そうなってしまうところがある。だから、好きになったら、その度合いを下げるように、穏やかな情動になりようにしている。しようと思ってできるわけでもないような気もするが、そうしようとしている。それは、感度を下げる結果にはなるのかもしれないけれど。

仏教は人間奪還運動である、と言った人がいた。些細な日常に驚く力を取り戻すこと、つまり日常の中で感動すること、これが人間を取り戻すことなのだと。河合隼雄は「感動しました」というのが口癖のひとつだったらしい。すげー!と僕が言う時は、すごいと思っているし、そう言うことで、日常を輝かそうと努力をしているというところもある。メイドインアビスの良さを岡田斗司夫は「世界が美しいことを描いている」と語っていたが、僕は、日常の些細な風景から、世界が美しいことを感じ取りたいのかもしれない。武満徹が音を聞くことを語っている。僕の、世界との関わり方は、そうした「世界の美しさの再発見」というのがひとつの目標としてある。そうできているのか、と言えば、できていないところも大いにあるのだけれど。

16persinalitiesでは、INTPと判定が出る。論理学者にあたる。

論理学者型の人達はその明晰な持論や容赦ない論法で有名で、事実、あらゆる性格タイプの中で、最も綿密な論理思考の持ち主だと言われています。

ゆかりさんから、「分析しがち」と言われたことがあるけれど、どういうことかを考える、というのが、僕にとっての世界の関わり方のひとつだと思う。分析的に考える。分析的に、という意味には、ミクロに細分化する、という見方もあれば、マクロに抽象化する、ということもある。ツイッターを見返すと、この行き来が最近増えてきたように思う。

それとは違って、何も考えないように音楽に浸るようなことがある。明らかに武満徹の『私たちの耳は聴こえているか』に影響されているのだけど、知識を持って聞いてしまうことで、いろんなものが聴こえなくなってしまうのではないか、という話である。ピアノの細かい技術の話に固執して、演奏それ自体を聞いていない、なんてことになってはいけない。日本人は、洋楽を聞く時に左脳で聞く、なんて話もあるが、理性で、分析的に聞いている、ということなのだろうか。音を、音階から解放して聞く、そういう瞬間を求めている。

これは、論理の動きを鈍くすることでもあるのだけど、思考することによって感情が動く面もあるのであって、実は、感情を鈍くすることにもなっているのかもしれない。しかし、何も感じなくてもいい。単に、そこに浸っているそういう時間がいいのだと思う。

それはそれとして、僕も日常で笑うし、嬉しくなる事だってある。最近は、部長がヅラを取ってきた話で大笑いした。

かなこさんに「結婚してください」と言った時にはド緊張していたし、ぶーちゃさんんへの”愛の告白”も、帰りにスマホをたぷたぷする指が震えていた。ピアノの発表会で、足ががくがくしながら弾いたことだってある。社長への抗議だって心臓が破裂するように痛かったし、試験に落ちた時は、部屋で一人泣いたこともあった。そういう、感情の動きはある。

とはいえである。就職活動していた時の面接で「緊張しているように見えないですね」と何度も言われた。そういう取り繕う能力、西尾維新の『伝説シリーズ』でいえば、杵槻鋼矢のパンプキンのようなものがあるのかもしれない。まあ、杵槻鋼矢のような人当たりの良さも、基礎能力値の高さもないのだけど。でも、過度な緊張状態でなければ、そういう「自然体」であり続けるところは、もしかしたらあるのかもしれない。

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私の個人的な身辺雑記

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