誤読された暗闇の外
ひとさいちゃんの『仄暗い闇の外から…』の「君」は誰なのか、という話が作詞者様から出ていました(たまたまツイートが流れてきた)。で、私は、たぶん絶対に誤読なんだけど、この「君」が主人公自身という感じがしている。まあ、誤読なんですが、その誤読を書いてみる。なぜ誤読しているのか。ということを考える。
というわけで。ここからは単なる妄想話ですので。引き返すなら今です。というか、もっと早く引き返すべき(やめなさい)
挫折を乗り越えるという物語
まず、そもそも、この曲は挫折からの復活、死と再生の話である、と考えている。
1番Aメロの歌詞。要約すると、「他の人は錆びていく。僕は違うと思っていた。でも、同じように僕も錆びていった。」というところでしょうか。同じような構図が2番でも繰り返されます。要約します。「綺麗に見えていた残像は近づけば見えてなかった汚れまで見えてきた」。順番は入れ替えていますが、ポジティブなイメージがネガティブなイメージへと堕落してしまう、そこは1番と同じ構図になっている。
Bメロでは、小さな希望・幼き夢がまだ残っている。「戻れるかな」と、迷っている。音型も揺れているから、迷いながら、立ち上がろうとしている、そういう場面だと考えている。
だから、この曲は打ちのめされた「僕」が夢に戻って立ち上がろうとする、その内面を追いかけている。そういう歌詞なのだと思う。だから、この曲は死と再生がテーマとなっている。
普通に解釈してみる。「闇の外から」というタイトルの文言と、「君の言葉が」という文言を考えるに、絶望に落ちいても、誰かの言葉が、絶望の外から「僕」を奮い立たせている。「だめだって君の言葉に決意を結ぶ」という最後の歌詞は、また前進しようとする意志なのではないか。絶望に落ちていっても、君の言葉で「僕」はまた前を向く、挫折を乗り越えるプロセスなのだ。
もう1点考える。「本当に大切なのは自分自身を裏切らないでいること」という歌詞。真面目に生きて努力してきた、その結果、理想にたどり着けなくても、そこが理想の世界じゃなくても、「仕方ないで終わんないで」と歌う。思い描いた結果ではなかった。でも、「君の言葉に実を結ぶ」。実を結ぶ、というのは結実する、という言葉もある通り、結果が出ることです。ポジティブなもの。だから、望んでいた結果とは異なる、別の結果が出ている。理想の世界とは別の形の結果、「君の言葉」が価値になる。つまり、価値観の転換が起きている。その意味でも、死と再生のストーリーであるわけです。
この歌は、挫折を乗り越えるという物語であり、理想の結果とは違う結果に価値を見出す価値観の変化の物語である、とも言えます。絶望の外の世界に希望がある。微かに光が差すように、「君の言葉」が聴こえてくる。「僕」は「君」に救われているのだ。
そうして読むと、すんなり通る。そして、こっちの方が正解に近いのではないか、と思う。本当のところは知らないけども。でも、私はこうは読んでいない。まったく別の読み方をしている。なぜか。そのカギは主語にある。
あ、さらなる妄想話が加速しますが、本当読み続けますか?後悔しても知りませんよ?
3つの主語
さて、この歌詞では、「僕」「僕ら」「君」という3つの主語がある。取り合えず、「僕」は主人公と言えるだろう。基本的には主人公の内面の話だという事も、異論はあまり無いのではないかと思う。しかし、だからこそ、「君」が出てくるのが唐突過ぎるのではないかと思うのだ。
詳しく見ていこう。サビでは、「そうだ僕らはきっと忘れているんだ」というように、「僕ら」という主語になっている。「僕」が他の人たちも含んだ抽象化された形で「僕ら」となっているようにも読める。確かに、「僕」は他の人と同じように錆びていったし、夢や希望を失った。「僕」と同じように錆びていった人たちをまとめて「僕ら」と呼び、「僕ら」は忘れてしまった、と歌っていると解釈することはできる。2番のサビでは「時に積み重ねてきた信じる正義は僕に牙を剥いて」という歌詞の後に「そうだ僕らは」と続いている。この「僕」と「僕ら」を地続きで見ると、「僕」は「僕ら」と大きな主語にしていると読むことは可能だ。
だが、考えてほしい。内面の話をしているのに、「僕ら」の話になるのだろうか。
「僕」は他の人と違うと思っていたのに、同じように挫折した。それでも夢や憧れがある。「握ってきた右手には小さいけど確かな光」があるし「背負ってきた荷物には幼い頃描いた地図」がある。これらは個人的な話だ。「僕」が「僕」の夢を語っているのであって、他の人が入り込む余地はないのではないか。
「もっと素敵な未来を」
そう叫んでいるのは、間違いなく「僕」であり、「僕」の願望なのだ。「僕ら」という全体性は無い。あくまでも個人の話である。他者が入ることが出来ない領域だ。
とすると、「君」は何者なのだろうか。一体、「君」は誰なんだ?
メンバーやファンを「君」であるとするのは無理がある
アイドルの歌詞だから、主人公以外のメンバーやファンの方々ということもできる。しかし、私はそうは読んでいない。メンバーやファンが出てくるには、歌詞の中に暗示が少なすぎるのだ。
どういうことか。物語においては、たいてい伏線が張られる。もし、メンバーやファンが登場するなら、そういう伏線、暗示が必要ではないのか。ところが、歌詞の中には、メンバーやファンと思しきサインは見当たらない。本当に唐突に「君」が出てくるのだ。だから、メンバーやファンを「君」であるとするのは無理があるのではないだろうか。
さらに言えば、「君」はサビの最後に登場しているのだが、最後のサビでは「誰かに裏切られても蹴落とされても胸に刻んでいて」「仕方ないで終わんないで」といった呼びかけのような節が出てくる。呼びかけている、ということは、誰かが誰かに向かって何かを言っているという事だ。つまり、主体に対して客体がいる。主体は「僕」であるというのが通常の読み方だろう。しかし、「僕」が「誰かに裏切られても蹴落とされても胸に刻んでいて」「仕方ないで終わんないで」と言うだろうか。挫折していた「僕」が誰かを励ますような言葉をかけるだろうか。そう考えれば、「僕」が呼び掛けているわけではないと読むのが自然だと思う。「僕」ではない誰かが主体となっている。では、誰が誰に呼び掛けているのだろうか。その前に、私たちは「僕ら」の意味を問い直そう。唐突な抽象性を持った、この「僕ら」という言葉を。
「みんな」という抽象的な意味
「そうだ僕らはきっと忘れているんだ」と歌われる。普通の読みであれば、「僕らが走ってきた、守ってきた意味を忘れているけど、「君」つまり(アイドルの仲間である)メンバーやファンの言葉が成果である」という読みになるのだろう。でも、その場合、「僕ら」ではなく、「僕」と表記されるはずである。あくまでも「僕」の話なのだから。
かといって、「僕ら」が「僕」とメンバーを含んだ言葉だということにはならないだろう。アイドルとしての成果としてファンがいる、と言ったっていい。でも、この物語は「僕」個人の物語であって、メンバーに拡大することはできない。「僕ら」は誰ともつかない、よく分からない抽象性を秘めている。
さて、物語、と呼んでいる。物語には様々な登場人物がいる。この歌の中には、「僕」という主人公と錆びていった人たち、とりあえずは彼らがいる。「僕ら」と「君」がいるが、これが謎となっている。だから、ひとまず、メインキャラクターは「僕」という主人公だけだ。個人の内面の話だから、メンバーやファンが突然に出てくることはない。だからこそ、この物語は「僕」しか出てこない話になる。登場人物は「僕」しかいない。
だが、実は、物語には、物語の登場人物以外にも関わっている人がいる。それはナレーターと作者だ。いわゆる地の文というやつがナレーターで、さらに大きな視点で、作者がいる。特に、ナレーターは「私が聞いた話ですが」と語る場合もあれば、テレビのカメラのように、人格がないままに神のようにあちこちに出没できるものでもある。
「僕」しかいなかった登場人物に、それとは別の人格が現れた。ナレーターである。「僕ら」は「僕」とナレーターである。そう考えてみよう。すると、「僕ら」となる箇所はナレーターが語り部になることになる。ナレーターといろんな「僕」がいる。そのみんなが「僕ら」である。そう考えたらどうだろうか。つまり、「僕ら」は「みんな」という抽象的な意味を持って、ナレーターが語っている。「みんな忘れてるんだ、ずっと走ってきた意味を」。みんなと言ってしまうとよそよそしい。だからこそ、「僕ら」なのではないかと考える。
「僕」という個人の話を、「僕ら」=みんなの話として抽象的に、ナレーターが神の視点から語っている。挫折からの復活という普遍的なテーマと「僕」という主人公、もっと言ってしまえば、さあやさんの個人の物語が接続されているのである。
さあやさんへの応援歌
ナレーターは「君」ではありえないだろう。語り部が呼び掛けられることは無い。とすれば、「君」は誰なのだろうか。「君」という客体は「僕」しかありえない。他に登場する人格はいないのだから。
「僕」が「君」であるならば、主語を全て「僕」にしていればいい、と考えるのは自然だ。私は、Aメロ・Bメロとサビで語り手が変わっているのではないか、と考えている。Aメロ・Bメロでは「僕」が語っている。それに対し、サビではナレーターが「僕」に語り掛けている。だから、「君」という言葉が選ばれる。
最初に、AメロとBメロの話を書いて、死と再生の話だと書いた。サビを考えずに、物語を描いた。これは、このサビの独立性があるからこそ、そう書いている。つまり、「僕」の語りとナレーターの励ますような声。この2つの場面の往復。これがこの曲の構造なのではないだろうか。挫折から立ち上がろうとする「僕」の物語と、それを神の視点から見ていて応援している、そんな構造である。ナレーターは誰であろうか。それこそ、誰でもあると思う。ファンが「僕」であるさあやさんを応援する、でもよい。私は、そこには作者自身が含まれているのではないかと思う。作詞者、もしかしたらプロデューサーも含まれるかもしれない、からさあやさんへの応援歌。そんな、親心のような曲のように聴こえてくるのである。
妄想の終わり
さて、私の妄想話も、ここまでである。「君」は「僕」であった。それは、サビでの語り手がナレーターだからである。「僕」の語りからナレーターの神の視点になる。「僕ら」つまりみんなそうだった。絶望して忘れている。そうじゃないんだよ、と語り掛ける。迷いながら夢や希望へ戻ろうとする「僕」へ。
おそらく、これは誤読であろう。ここまで書いて、今更なんだって話だけど、まあ、妄想話だから仕方ない。
そもそも、この読み方には大きな欠陥がある。1番のサビも2番のサビも呼びかける節は無い。だから、最後のサビだけを問題にして書いている。これは、過剰に最後のフレーズを重要視しているのではないだろうか。また、2番の歌詞では、「時に積み重ねてきた信じる正義は僕に牙を剥いて」と、「僕」という言葉が使われている。「僕ら」ではないのである。だから、サビがナレーターの言葉である、という言い方も、難がある。だとするならば、「君」は「僕」とは別の誰かであり、曲の外部から、メンバーやファンという見えない登場人物を登場させる他ないように思う。
「君の言葉」も解釈が苦しくなる。「君」が「僕」ならば、「僕」の言葉が必要なのだが、実を結ぶような言葉は無い。ではこの言葉は何なのだろうか。どのような言葉なのか。
まあ、そもそも、作詞者様が「君」について例示のようにメンバーやファンを挙げているわけだから、「僕」なわけないのだけれど。
まあ、妄想は自由だし、何を書くのも個人の自由である、というところで。
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