区別をすること
YouTubeであっぱれさんの動画を作業BGMのように見ていて、こうして曲を聴いてると、なんか、AKBやら坂やらで言われた「在宅派」というのか、そういうものの方が合ってるんだろうな、という感じがします。やっぱり、現場よりも部屋で閉じこもっている方がいい。
とはいえ、そこから、ジャンプしなければならないのではないか、という思いはある。どこかで、部屋から表に出ていかないといけない、と思ってる。だから、コロナの前は、飲み屋に行ったりしてたわけで。
ところで、こういう別のものを見る、というのも「浮気」という場合があるのかもしれない。そうなってくると、推しとかそういう文化はめんどくさいんで、押し付けないでください、という感じにはなる。これ好きなんですよ、あれも好きなんですよ、で別に良くねっすか、という話で、アイドル(さらに言えば特定の個人についても)あの子もいいがあの子もいい、ですまなくなってしまう。
その意味で、メイド喫茶・コンカフェという、「推し」の文化にいながら、明らかに僕はそれに馴染んでいない。どうしても、区別をすることが、差をつけることが苦手だな、という感じがします。それが、もっと大きな枠で捉えると、どの店も、という感じになっていってしまうのかもしれない。
「誰にでもやさしいのは誰にもやさしくないのと同じだよ」と、『おいしいコーヒーの淹れ方』で書かれていましたが、私はそれをもじって「誰でも好きは誰も好きじゃないのと同じだよ」と言っています。だから、好きな人には特別扱いすること。それが、誰かを好きであることの、第一の条件なのかもしれません。
DDは誰も好きでないこと。誰にも嫌われないように、八方美人をする。そんな、やさしくて、残酷なあり方。
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