創作。中動態。リズム。
かき氷の、大きなスタフラを見てから、もう直ぐ一年になる。早いのか、長いのか、なんともいえない。遠い記憶のような気もするし、その割にその間の記憶は断片的で、あまり覚えていない感じもする。いろいろと変化している感じもするし、変化していない感じもする。なんとなく変な感じ。
音楽は波である、ということを考えていて、ダンスも波なのではないか、ということを考えている。波。つまりリズム。緩徐の行き交い。
もっと細かい、意味的な断片にとらわれていた時期があって、そこから、全体の構造的な話が問題になってきて、また、細かい話に戻って、という連続のような感じ。
会計の話で言えば、細かい基準の話をやらねば、でも全体的な話に戻り、ということが続いている。なんやかや、僕の会計に対する姿勢は、歴史文書なのである。先史から現代にかけて、さまざまに記録されてきた人々の営みである、という全体的な人類の歴史であるとともに、企業の歴史物語としてのフィクショナルな記録でもある。
こうしたい、という意志が反映される。しかし、國分功一郎のスピノザの話(『はじめてのエチカ』『中動態の世界』など)で、意志ではない世界線、ありえたかもしれない近代に触れている。会計における能動と中動はどういうものなのだろうか。
僕の会計観は青柳文司に影響されている。フィクションであり、創作物である。会計上の見積りで、より、創作の範囲が広くなった感じがある。青柳は、会計は利益から決まると言っていたそうだ。ありたい姿に合わせて、装飾されていく。
それを、どのように考えればいいのだろうか。ありのままの姿を晒せばいいではないか、という個人的な思想と相反していく感じがして、会計が意味不明な誰かとして現前している。
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