追憶
30年前、どちらの祖父も生きていた。どちらも、たばこを吸っていた。その頃は、みんなたばこを吸っていて、大人はたばこを吸うものであった。父方の祖父はまだ店をやっていて、鉄板でお好み焼きや焼きそばを焼いてくれた。母方の祖父はもう働いておらず、町内会の会長をしていた。
貧乏だった父母は、どちらの家にも居候をした。父方の家では、店が忙しくて、構ったりすることができなかった。まだ幼かった私は、一軒家を駆けまわったが、それを抑えるのに母は必死だった。針仕事をしている祖母に抱きつこうとして、危ないから外で遊ばせて、と叱られたこともあったそうだ。義父母にあたることもあり、母は肩身が狭かったようだ。
母方の家でも肩身は狭かったが、血のつながりがあるので、安心はしていたらしい。だが、ある時、祖母が祖父に父の愚痴を言っているのを聞いたらしい。祖父は、なぜか父を買っていた。好きにさせてあげなさい、と祖母をたしなめたらしい。そうした、懐の広さのある人だった。母は、偶然、それを聞いてしまって、家を出なければならない、と思ったらしい。家計は苦しかったが、小さいアパートへ移った。
その後、何度か引っ越しをしたが、すべて母方の家に近かった。だから、母方の家に行くことが多かった。祖父には将棋を教えてもらった。祖父とは定期的に将棋を指した。でたらめな指し手にも、特に矯正せずにいた。だんだん、大きくなって、回数が減っていったが、祖父が肺がんを患った後は、隔週で行くようになった。途中から、酸素チューブをつけるようになった。「これをつけないと、息が上がったみたいに苦しくて」と言っていた。ずっと晩酌に飲んでいた日本酒も、少しずつ量が減っていった。
入院をした。お見舞いにいったはずだが、覚えていない。ある日、学校の先生から「母親を名乗る人から電話があるので出て欲しい」と言われた。携帯電話なんて、みんなが持っているものではなかった。お金持ちやビジネスマンだけのものだった。祖父の容体が悪化したから、急いできて欲しい、ということだった。後から聞いたが、母は、死に目に合わせることも教育のひとつだと考えていたらしい。祖父の死に目には立ち会わせたかったのだそうだ。
病院に着くと、祖父は苦しそうに呼吸をして、みんな泣いていた。だんだんと、呼吸が弱く、少なくなっていく。祖母や叔母が「がんばって!」と泣きながら叫んでいる。母も泣いていた。僕は、間抜けにも、当時流行っていた磁力テープを祖父の足に貼った。呼吸が楽になるツボ。祖父は、呼吸を忘れるようになった。「吸って!」祖母が叫んだ時だけ、息をすることを思い出すように、息を吸った。そして、静かに。呼吸をしなくなって。死んだ。
僕は、最後まで何も分からずに、その場にいた親戚の中でただ一人、何も分からずに、泣く事すらできなかった。
父方の祖父は心臓の血管が切れて死んだ。煙草をずっとやっていたし、高血圧なわりに、塩辛い食べ物が好きだった。ケンタッキーフライドチキンが好きで、父方の家に行くと、よく出てきた。それと、店の鉄板で作ったお好み焼きと焼きそば。店を閉めて、ほとんどのテーブルを捨てたけれど、一台だけ、鉄板の付いたテーブルを残している。今でも、祖母が暮らす家に置いてあって、叔父が焼きそばを焼いてくれた。
店を閉めたが、自動販売機もあったし、町内会の会長もしていたので、何かしら忙しかったようだ。好きなものを買いな、と百円玉をもらって、自動販売機でジュースを買った。一緒に鎌倉に行って、てんぷらそばを食べた。東京の出汁はまずい、色が濃い、と文句を言っていた。
東京で勤めていたことがあって、東京に遊びに来た時に、ふらふらと歩いた。僕は、目的地が聞きたくて「どこまで行くの?」と聞いたが、祖父は疲れたから帰りたいという意味だと思ったらしい。その後すぐに引き返してしまった。後から、実は皇居に行きたかったのだと知った。祖父は、大阪に帰り、数年後、もう一度東京へ遊びに来る予定の日を決めて、もうすぐその日になる、そんなときに、倒れた。そして病院へ搬送された。その連絡を受けて、父は、翌朝大阪へ行くことにした。会社やらなにやら、連絡をして、僕が重要な書類を代わりに会社に届けることも決まった。決めてすぐ、大阪から電話が来た。「死んだか…」と父は言った。
葬儀の時に、棺が出るときだったろうか、父が泣いた。唯一、その時、やっと、泣いた。それを見て、ああ、父親はいつか死ぬんだ、と痛切に感じた。
車から降りて、家の中へ入る。あの頃、運転していた自動車は、自動運転となった。何もしないで、目的地を入力するだけでいい。「電気つけて」声を掛ける。自動で電気がつく。声を使うなんて、アナログな方法をいまだに使っている。想像することで、動かせるものが増えてきていて、電気はそれでピッとつく。便利になったと思う。
ソファーに腰かける。疲れてしまった。寄る年波には勝てない。ちょっと出かけただけで、もうヘトヘトだ。母方の祖母が、日に日に体が弱っていくのが分かる、と言っていたのを思い出す。まだ、そこまでの年ではない。30年前、89歳だった母方の祖母の家にたびたび行っていた。その頃の流行病の影響で、出かける回数が減って、一気に足腰が弱ってしまった。だから、僕も出かけなければならない。何もなくても、何かをして、体を鍛えておかないといけない。パワードスーツはあるが、高いし、できる限り、自分の力で動きたいではないか。
しかし、便利な世の中になった。掃除もロボットがやってくれるし、ごはんもロボットのデリバリーが浸透してきている。もう、作るのも面倒なので、デリバリーや外食になってしまう。
「買ってもらって一番うれしかったのは、洗濯機。今みたいな電気のじゃなくって、手で回すやつだけど、あれが来たときは本当にうれしかった」
祖母が言っていたな、と思い出す。ほんの100年足らずのうちに、洗濯機は自動で何もかもやってくれるようになった。便利になった分、ひとりで生きていると、暇ばかりが永遠のように続いていく。
ソファーに沈む。
このまま、ひとり、死んでいくのだろう。祖父は、僕といっぱい遊んでくれた。結婚もせず、こどももいない身だから、遊び相手もいない。このまま、眠るように死ぬのだろうか。でも、それも怖い。死がだんだんと迫ってきて、より、死がリアルになってきて、死にたくない、と思うようになった。怖くなった。このまま眠ってしまって、明日起きるのだろうか。寝ている間に死んでいるのではないだろうか。
「レクイエムを」
静かに目をつぶる。悲しく、音楽が流れて、死んだ父や母を思い出していた。
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