傾いて戻ってくる
『推しエコノミー』をパーっと見ていた。萌えから推し、見るものから参加へ、終わらない物語の夢想、アイドルの「生き直し」の作用。恋愛のストーリーの分断(恋愛、性愛、結婚、出産の過程の分断)や、ウマ娘を美少女育成として見ているところ(アイマスとの共通性)。
僕は、昔アイドルについて書いた時に、「アイドル。それは理想の虚像だ。アイドルは生きる。ファンとともに。アイドルの物語を。それは、みんなで作る物語。夢のような、儚い物語。」と書いた。
この間は「最後に、3つ目(の条件)として、非日常性を有していることです。日常の、効率的な社会から切り離された、聖なる存在であること。アイドルとファンには、一定の距離がある。巫女と祈る者のような。」と書いている。これは、この本にも近いことが書いてあって、僕の考えている方向性に、大きな間違いはないんだろうな、と思った。
しかし、こんなにアイドルについて考える必要なんてなかったんだけど、なぜか、そういうことを考えた。仕事を始めた時も、会計観がないと会計できない、と思って泥沼に足を突っ込んだ。
本当になんでだろうか。
実は、ここに、僕の享楽があるのかもしれない。
そもそも、アイドルに興味なんてなかったし、むしろ低俗なものとまで思っていた。それが今、結構ハマっているし、肯定的に捉えている。僕はその価値観の変化を解釈したい。
言い換えよう。もっと簡単に、僕はきっと楽しんでいる。何が、何故、楽しいのか。それを、どうにか解釈したい。僕がしなさそうなことを、今、している。行動に何か意味を与える必要がある(人間は無意味ではいられない、その近代の呪縛に囚われている)。
そういうことに一先ずしてみる。
そして、たぶん、結論は「意味がない」に行き着くのではないだろうか。会計がそうだったから。そして、「意味のなさ」をどう考えるか。そこに行き着く。というより、そこに今いる。
でも、そもそも、メタにマクロに考えることによって、「意味のなさ」を考えているのだろうか。「意味のなさ」を考えるからこそ、このようなメタな、あるいはマクロな視点になっているのではないか。
そう考えると、僕は、基本的に効率的に生きたいと考えていて、でも、どこかで非効率になってしまう。この、理屈と感情の綱引きが心の中で起こっている。理屈だけでは生きられない。どこかで、自分が安心するために、自分が納得するために、感情を強く引っ張り上げていく必要がある。
ああ、そう考えると脱構築だ。
僕は、効率的対非効率的の脱構築をしている
効率的が優位だと考えられる。でも、そうではない。非効率になってしまう。そこになんとか説明を付ける。非効率であること、例えば冗長であること、そこに価値を見出してみる。雑談に真実がある。そう考えてみる。道草によって道の味が分かる。そういうことを考えている。
やっと、この、遠回りをきちんと考えられるようになった、ということだと思う。僕は働き出すのが遅かった。だから、職歴が短いことに少し負い目がある。その遠回りがあったから今があるのだ。効率的だけではない、人生の価値を見出す。それがやっとできるようになった。
メイド喫茶・コンカフェやアイドルという「消費」も多きなことだと思う。投資をすべきだ。しかし消費してしまう。勉強しなければ、でも遊んでしまう。そういう、行ったり来たり。
禅の話のようだ。傾いて戻ってくる、その過程が禅である。僕は人生を禅として生き始めたのかもしれない。悟りへ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?