勇気をください、に何と返事をするか。

勇気は立ち向かう心であり、勇気とは意志を持って行為する、そのあり方である。つまり、勇気は意志を司る。勇気をください、“give me 勇気“は、勇気を与えられる、という、現代の受動態的な考え方である。しかし、心理は他人から与えられるものだろうか。勇気を与えられることは、何かに立ち向かう心を他者に依存することである。つまり、意志を他人に依存している、ということだ。ここでの依存はネガティブな意味ではない。意志は、本来自分の心のうちで現れ、行為へと誘うものだと考えられている。しかし、勇気を与えられることで、意志は他人のものとなってしまう。他者に身を委ねること、その意志性はどのように考えればいいだろうか。

人間は他者によって動かされているところがある。それは、「勇気をください」という発言の前も同じだろう。他者に影響され、それに触発され、発言をしている。他者に影響され行為する。他者は複数である場合もある。その方が多いかもしれない。いろいろなしがらみに、我々はとらわれながら何かをするのである。だとしたら、意志はどうなるのだろうか。カツアゲを考えよう。或いは学校の罰掃除を。やりたくないとしてもやらされてしまう、やらざるを得ない、そういう場面であったとしたら。他者に身を委ねて、行為してしまう、それは自らの意志であると言えるだろうか。

『「する」と「なる」の言語学』では、「する」ことは場所の変化、「なる」ことは状態の変化、だと書かれている。どういうことか。「する」は動作主が主となっていて、その結果が従となる。しかし、「なる」では、動作主が不在となり、結果である状態が主となる。『弓と禅』では、「なる」状態について書かれている。弓が、葉の雫が落ちるように、自然に放たれる。私が弓を射るのではなく、弓が自然と射られるのである。我々は、ここから、「なる」について考えていこうと思う。日本語は主語の希薄な言語であるとされる。その主体のなさは、「なる」的な言語である。状態となること。変化すること。これについて考えていく。

アイドルが「幸せにするね」と言う。アイドルが他人の心理をぐちゃぐちゃいじることはできない。行為の主体を考えるから、「する」こととしての「幸せにする」と言うしかなくなる。しかし、行為者をどこまでも透明にしていく、主体をなくして考えてみる。つまり「なる」ことを考えるならば、「幸せにする」ではなく「幸せになる」という、状態の変化として捉えることができる。「なる」には本質的に意志がない。行為者がいないのだから。それは、自然とそうなっていくことである。状態が変化して、そういうものに変わっていくのである。カツアゲされることで、相手を殴り返すかもしれないし、おとなしくお金を渡すかもしれない。何にせよ、自ら行為を自らするのではなく、そういう状態に自然となるのである。

『中動態の世界』において、國分はスピノザを引いて、意志と責任について述べている。スピノザは、何かによって変化する力を変状する能力と言う。そして、変状が我々の本質を現すときに能動であり、本質を現さないときは受動であるとしている。そこに、行為の方向、することとされること、は関係ない。本質かどうか。それが問題とされている。

何かに影響され、「勇気をください」と言うことは、それによってまた新たな影響を受けるという状態の変化を生じさせる。おそらくは、何かしらの行為を行うことを迷っている。むしろ、したいと思っているが、していない。しかし、するつもりである。この、ぐねぐねとした思考は、意志が弱いと言われるだろう。パシッと決めることが意志の強さなのだ。その、パシッと決められることは、勇気にも繋がっている。勇気があるから意志を持って、むしろ、勇気という意志によって行為する。

しかし、我々は、意志ではないものを考えた。「なる」ことには意志がない。単に変化である。「勇気をください」という言葉は、何かになろうとする、変状する途上である。としたら、「勇気をください」と言った時点で、もはや状態の変化、「なる」ことは始まっている。

意志から切り離された勇気を捉え直そう。もう一度、勇気の定義に帰ろう。何かに立ち向かう心。勇気とは、何かに立ち向かうことである。立ち向かう対象は脅威であったりリスクであったり新しいことであったり、さまざまな対象である。そうした他者への反応や対応として立ち向かう。ところで、リスクには複数の対処法がある。その例として、受容、軽減、除去、回避と区別される。何かに立ち向かうことは対応することでもあった。リスクへの対応の中で言えば、受容にあたる。積極的に対峙すること、それは変化を受け入れることだろう。つまり、行為がなされることを待っているということになるだろう。

言葉を発した時点で変化が始まっている、それは何かに立ち向かっている最中ではないだろうか。刺激を受けて、自分の中で、何かが蠢いている。それはその時を待っている。つまり「なる」過程にいる、新たな状態へと変化しつつあるということなのだ。弓を引く。射るのではなく、自然に放たれる、そのタイミングを待っている。「勇気をください」と言うこと。それは何かしらの行為が起こる、その時を待っている、その状態である。行為が起こることを待っていること、新たな状態へ立ち向かうこと、立ち向かい続けていること、それこそが勇気ではないか。勇気とは、何かに対峙する、そのプロセスなのだ。だから、「勇気をください」と言った時点で、すでに勇気を持っている状態にいるのである。

プロセスにいること、そのように自然となること、その過程において、勇気は実践され続けているのである。

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