夜の部屋で

孤独に彼女を見ている。

ツイッターの向こうのすました彼女。彼女の、明るい笑顔を思い出す。子どものようなあどけなさがその時は現れる。明るく元気に見える彼女に深い闇を感じることがある。
僕は、明るい人ほど、その裏にある闇の部分を見出すように思う。それは、僕が道化を演じながら虚ろな目で世界を見ているからではないだろうか。人はみんな多面的な存在で、いろいろな性質を持っている。

こうして、暗い部屋でひとり過ごす時間が好きだ。誰とも関わらない、僕だけの閉じた世界。本当の自分を取り戻す、そんな時間。

ふと思う。

誰かと関わる自分は本当ではないのだろうか。そもそも、本当の自分とはなんだろうか。本当の自分という完全なもの。その完成した存在があると言えるのだろうか。何で読んだか、団十郎が、海老蔵が役者に向いているか分からないと言っていた。すでに30に近かったのではなかったろうか。幼少からやっているにも関わらず、完成どころか、まだ測りかねている。僕は本当の自分といえるような、完成されたものと言えないのではないか。

知ること・知らないこと

昔のテレビ番組で、聖書を方言に訳している人が取り上げられていた。標準語という「他人の言葉」から、方言という「心に根付いた言葉」に置き換えていくと、聖書の内容が心から分かるようになってきた、と言う。彼は言う。ずっと訳していると心の奥底に光のようなものが見えて、手を伸ばしたら届きそうだけど、全然届かない。仏教では「心の奥底に如来を見る」という言葉があるが、まさに、心の奥の悟りのようなものに届きそうで届かない状態なのではないだろうか。僕は、その領域に行ってみたいと思っている。それは、限りなく完成に近いものである。高校の先生は「勉強を続けていると、今まで見えなかった世界が見えるようになるよ」と言っていた。僕は何が見えるようになっただろうか。

武満徹は「私たちの耳は聞こえているか」と問う。知識が増えていくことで、音楽自体を、音自体を味わえていないのではないか、と。考えてみれば、音階や和音だけでなく、平均律の音に慣れてしまったことで、聞けなくなったものもある。『ノヴェンバー・ステップス』を鶴田錦史の弟子が弾いた時に、武満は違和感を抱いたという。弟子はギターが趣味だった。だから、音の感覚が平均律だった。その平均律の感覚が、鶴田錦史が弾いていた純正律のフレーズとは異なってしまった。それは、知りすぎたことで失われたものでもある。知ってしまったことで、子どものようなまっさらな耳で聞けなくなってしまったのかもしれない。僕の耳は、本当に聞こえているのだろうか。

僕は、知りたいと思う一方で、知らない純粋さを求めている。その矛盾。自己の中に矛盾を抱いて生きている。また、僕は士業であるため、客の前では完全でなければならないと思う一方、その無限の学習範囲の前では完全とはなりえない、という矛盾を抱える。
鹿島茂は、二項対立から離れ未分化となるドゥルーズの哲学は、ドゥルーズ自身は二項対立が出来なかったからではないかと語る。フランスの試験では、二つの対立する項目から新しい第三項を作る、ディセルダシオンという科目があるそうだ。
ドゥルーズはこの科目が出来なかったらしい。だから、そうした、二項対立に落とし込めなかったことが、彼の哲学に反映されているのではないか、というのだ。
そして、鹿島は、日本人も二項対立ができないという。そもそも、そうした教育を受けていないからだ。だから、逆に言えば、日本人はこの未分化なものを元々持ち合わせている。二項対立的な矛盾を抱え、そのままに受け入れる、そこに日本人らしさがあるのではないか。そして、それが自分の中にある、ということなのではないか。

自己の不完全であること、完成していない事の中に、日本人らしくある事、そうしたものが見出せる。

「なる」ことについて

『弓と禅』の中で、矢を放つのではなく、自然に放たれるもの、という記述がある。自分がするのではなく、そうなるのだ。笹が雪の重みでしなり、自然雪が落ちるように、弓が自然にしなり、自然矢が放たれる。自身が自然になるのだ。

彼女は「強くなりたい」と言う。その能動性。しかし、「強くなる」を、意志による行為としての能動態と捉えることは適切なのだろうか。
『中動態の世界』では、古代の言語においては、能動態vs受動態の対立ではなく、能動態vs中動態の対立であったとしている。するvsされる、ではなく、過程の外にいることvs過程の内にいること、であった。
現代においては、能動的であることは、自分の意志である。意志によってそのように行為すること。そこには、行為することに伴う責任がある。しかし、中動態の時代、そこに意志はなかった。意志がなかったから、責任もない。そう「なる」ものだったのではないか。
そう考えると、弓が自然に放たれるというのは、中動態なのだ。

おそらく「強くなる」は、能動態vs受動態のなかでは表せないものなのではないか。強いていえば、「自分が自分を強くなるようにする」ということだろう。能動態vs受動態の中では能動態ということになる。
しかし、「自分が自分を強くする」という構文は、私が何かをすることでもあるし、私に何かを強いることでもある。主語と目的語が同じため、能動態でも受動態でも言い表すことができる。受動態に言い換えると「自分が自分に強くさせられる」という受動態にもなる。ここに、「強くなる」の能動態でありながら、能動態でなさがあるのではないか。だから、能動態vs受動態の関係では「強くなる」は言い表せない。中動態なのだ。古代ヨーロッパに忘れ去られた中動態なのである。
『中動態の時代』では、スピノザの思想から、自由と強制という言葉で表されている。人は外部の刺激に影響されている。外部からの刺激によって、中道的なところから変状し、その本質が発揮されるならば、能動として、発揮されないならば受動として表現される。そして、能動は自由として、受動は強制として表される。ただし、能動だけであること、受動だけであること、はないとされている。
つまり、行為は能動の面もあり受動の面もある。その度合いが違っているということなのだ。「強くなる」ことは、その本質を表すかどうかで、その度合いで、能動か受動かが変わってくる。矢が自然に放たれる、というのは、その本質を発揮していることだ。つまり、矢が自然に放たれる状態は、スピノザの言う能動に他ならない。彼女が「強くなる」時、そこに彼女の本質が表されるだろうか。

僕は、彼女をやさしいと思っている。彼女は自分のオタクに対して、喜んでもらえるように、いろいろ考えている。その分、愛の要求水準も高いように感じるけれど。深く絆で結ばれることを望む。彼女の「強くなる」は、敵と戦うためではない。
自分たちのコミュニティが、愛する人たちが、生きていけるような、そんな強さを求めているのではないだろうか。ずっと関係が続いていけるような、そんな強さを。

そのように考えてみると、彼女の「強くなる」は、結局、彼女のやさしさから出ているのではないかと思う。そして、それは彼女の本質を表すものと言ってよいのかもしれない。であるならば、彼女は能動であろうとしている。自由を目指している。スピノザも自由を良いとしたらしい。その、自然に放たれる弓矢のような、自由。弓矢は「なる」ものであった。意志とは関係ないところで、そのようになっていく。それは、禅における「悟り」に通じている。もしかしたら、能動であることは、悟りへの道なのではないだろうか。外部的刺激を受けて、その本質をいかんなく発揮できる、その自由な状態が「悟り」なのだ。もしかしたら、心の底に如来を見出そうとすることは、自由である事なのではないか。

『中動態の世界』における能動が「悟り」なのではないか。そうならば、僕は、「悟り」への道を進むことで、自由へと向かっているのではないだろうか。彼女は「強くなる」ことで自由へ向かっている。僕は、もしかしたら、そこに親近感を抱いているのかもしれない。
しかし、同じ人間をねたむことがある。僕たちは、同じように自由へ向かっているならば、お互いにねたみあわないのだろうか。おそらく、彼女と僕は違う方法で自由であろうとしているのではないかと思う。外部からの刺激は、矛盾したものを生む。その二項対立を、どのように乗りえているかが違っているのではないだろうか。彼女は、ルールのないところから、制限をするためにルールを作っている。僕は、ルールがあって、そこから離脱するためにルールを破る。この、行動の基となる価値観が違っているのだ。この違いが軋轢を生むこともある。実際、彼女のことを理解できないことは多いし、それは逆も然りだろう。しかし、その価値観の違いを受け入れられる何かがあるのではないか。
それが何かは分からない。しかし、その何かが、彼女と僕を繋いでいるような気がするのである。

エピローグ

スマホの明かりが部屋を照らしている。そういえば、スマホを通じて、外部からの刺激を受けている。誰かと関わる自分も、ひとりでいる時間も、僕は外部からの影響を受けている。誰かと関わる時は、自分の自由にならないことがある。誰かの都合や組織の論理が働いてしまう。受動であり、強制になりやすい。しかし、ひとりでいる時間は、能動になりやすい。自由になりやすい時間なのだ。だから、僕は、一人で過ごすこの夜が好きなのだ。

夜は静かに横たわっている。
彼女は、夜空の下、酒でも飲んでいるのだろうか。一人だけの閉じた世界を過ごしているのだろうか。この夜が彼女へ続いているように思われた。

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