効率性とは違う何かを持つ

高須賀さんのツイートが炎上していて、誹謗中傷的な引用ツイートをぱーっと見て、「いやあ、ムカつくなぁ、ひとさいちゃんの宝を!」と憤っておりました(方々みんな宝なのですが)。しかし、なぜか、「(高校生の頃)芋くさいけどモテてました」というツイートが「(美人の陽キャが)陰キャアピールしている!」という別の捉え方になってしまして、なんというか、日本語読めないんだな、という感じがしています。

こういう、誤読は、おそらくですが、直感的にパッと思い付いたことを書いてしまうからなのではないかと思います。二重過程理論のシステム1。素早く自動的に動くけれど間違えやすい。だから、誤読をするのではないでしょうか。

そして、最近の兆候として、短絡的に物事を行いがちなところがある。つい、ぱっと飛びついてしまう。とりあえず、思い付いて、引用リツイートをしいてしまう。特に、人数が多いと、まぎれると思ってしまうところがある。

まあ、そういう、短絡さというか、考えない感じがある。コスパ、タイパというような効率性の求められる中で、脱目的的な、ゆっくりと過ごすことが少なくなってきて、じっくりと考えることが出来なくなったのではないでしょうか。

しかし、まあ、陰キャと陽キャの話でしたが、非モテとリア充の対立に近似する気がします。そう考えると、非モテのリア充への恨みみたいなものが透けて見える気がしてしまう。

「男子というのはスクールカーストの中で精神的にレイプされている」という話が、岡田斗司夫ゼミ『対談 漫画家・山田玲司~非モテに効く薬~』に出てきます。

要は、ほとんどの男性は女性から、特にリア充の人たちから男として見られない、外されたような感じがある、という訳です。「非モテとリア充って一番違うのは何かというと周囲の身の回りにいる人に無意識に承認を求めてしまうか、そもそも承認を得られないから隠そうとするのか」と岡田斗司夫は言っていますが、非モテは、そもそも女の子から承認されてこなかったし、今だって承認されないんだから(つまり、モテないのだから)、こじらせているわけです。

まあ、僕だって、こじらせているわけですよ。だから、ポルシェもらった女の子を見て、つい、「すげー、何つ―世界線だ」とか言ってしまうわけだし、花屋敷の婚活イベントでの関係の作れなさのような、ひねた感じになってしまう。

僕は、幸い、一応資格試験を通るというワンチャンスを得ています。もちろん、これだって相当の努力をしてきたわけです(だから、僕は努力の重要性を説くわけです。でないと、自分の生きてきた価値観がぐちゃぐちゃにされてしまうから)。だから、それなりに遊べる地位にいる。

でも、ほとんどの人は、それすらなかった、漫然と生きてきて、漫然と日々を過ごしている。なんか、社会は鬱屈としていて、閉塞的で、テレビでは日本はダメだと言ってばかり(テレビはショッキングなことを流しがちです)。

だから、パパ活女子やらインフルエンサーを見るとムカついてしまう。「自分たちは苦労しているのに、かわいいってだけでキラキラした生活をしやがって」となる。しかし、かつては、その先の、社会システムなりなんなり、もう少し大きな物語(社会運動)の中で考えられたわけですが、それすら考えられなくなった。バカになったというより、そういうところまでじっくりと考えられなくなった。ファスト社会化、拙速・調節的・短絡、そういう時代になってしまったのではないでしょうか。

だから、何も考えずに、パッと飛びついてしまうのではないか。そんな感じがしています。

当然、個人のことは分かりません。個人を知るということは、もっと深く、きちんと見なければならないわけですから、こんな短絡的に書けるようなことではない。今書いているのは、何となく社会の流れがこういう風になっている、そういう話です。


と、彼らの行動原理を考えてみたところで、別に高須賀さんの炎上が無かったことになる訳でもないし、私の気持ちのざわつきも収まるわけではないですが。

なお、冒頭の文章ですが、すごーーーーく、マイルドに「ムカつく」と書いておりますので。「陰キャ気取るな」と言っていた方の中に、「ひとさい現場だと刺されるかも」と書いていた人がいましたが、刺さねぇからライブ来て高須賀さんに謝って、そのままかわいさだけではない魅力に虜になってしまえよ、と思いました。

たぶん、まじめに活動しているアイドルは、そういう、非モテとリア充の対立とは無縁の世界だから。構造的に。

ただし、繋がりとか彼氏がいるとか、そういう話が出てくると、「リア充に搾取されている」という別の怒りになってしまうのではないかと思いますが。

千葉先生が「日本の「おもてなし」は、他人への思いやりというようなものじゃない、他人とは、下手をすると荒れ狂う自然なのであり、それを鎮めるために絶えず儀式が必要なのだ。」(『アメリカ紀行』P.180)と書いています。SNSにおける他者は、蝗害のように、場を荒らしていく天災でもある。イナゴ。株における、短期的な個人投資家はイナゴと言われますが、資本力のある投資家に食い物にされることがあります。SNSにおけるイナゴも、情報屋に食い物にされているところがあるのかもしれない。情報に飛びつくだけの、それだけの存在。だからこそ、蝗害はどうにもならなさがある。

だとすると、僕らが考えるよりも、世界は殺伐としているのかもしれない。投機的な、ギャンブル的な、拝金主義がを脱するために。何か、効率性とは違う何かが必要なのだと思います。

効率性がダメなわけではない。効率性も大事だし、非効率性も大事。河合隼雄的な、二項両立が必要な気がします。

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