忘れられたあなたへ

レイちゃんレイちゃん言うとって、嫌いになったわ、とかなこさんに言われた。ふええ。

これまでの、僕の行動を考えてみると、争いになりそうなときは、避けるように思う。昔々あるところで、初めてメイドキャストにブロックされたときも、それ以来しばらく、その店に顔を出さなかった。その時は、まりあさんだったのかな。別の人にもう一度連れて行ってもらって、なんとなく収まった、という感じだった気がする。

二度目の時は、完全に行かなくなってしまった。実のところ、二度目の時は、1年以上をかけてフェードアウトしていく予定だったので、これは完全に失敗した、ということになる。でも、アウトには成功した、という意味で、最悪の方法で、最低な形で、目的は果たしたことになるのかもしれない。

こんなこと、本人が見たら、めちゃめちゃ怒られるだろうし、彼女の友達(最初にブロックされた娘でもある)が見ても、怒られる気しかしない。

だが、もう、いいや、という気分である。
もう、なんでもいいや、という感覚になってきた。

またブロックされたいのかといえば、それなりに精神的にくるものなので、されたくはない。なんというか、メイド喫茶・コンカフェをやめた身だから、もはや、ブロックされようが出禁になろうが、どうでもいい、という感じになっている。

メイド喫茶・コンカフェから離れたのも、もめごとに関わりたくないから、ということがあった。例の事案において、僕はどちらの味方をする気もないし、どちらが悪いということでもない。勝手にやってくれ、という感じである。それ以前にも、他の店でそういったことがあった。だから、もう、どこにいても一緒だろう、という気分になった。それでやめたのである。

なんにせよ、ブロックされた直後に彼女に会いに店へ行っていたとしたら、罵り合いになっていただろう。一方的にタコ殴りになっただけかもしれない。距離をとる、ということは、争わないためのひとつの手段なのである。
それを、自然とやっている。良いか悪いか、ではなく、そういう性質がある、ということである。

だから、かなこさんに本当に嫌われた、と思ったら、僕は食堂に行かなくなるだろう。かなこさんがいない日であっても、行かなくなる。そこで、人間関係を諦めてしまうのだ。

『やさしさの精神病理』では、軋轢が苦手な現代のやさしい人たちについて書かれていた。やさしい人たちは、べたべたするのを嫌う。喧嘩をして仲良くなるのではなく、最初から、喧嘩が起こらない距離感を保つのである。

愛の話で、ハリネズミの例がある。
ハリネズミのカップルが寒さをしのごうと、寄り添い合おうとする。
しかし、近すぎると針が刺さってしまう。
そこで少し離れると、寒い。
そして、また近づく。
これを繰り返して、最適な距離感を見つけていくのだ。

しかし、現代のやさしい人は、そもそも傷つくことに敏感だ。近くへいくと針が刺さってしまうことが分かっているから、近くへ行かない。行っても、安全な位置までしか行かない。だから、寒い。でも、傷つく方がいやなので、寒さを甘受するのである。

僕は、自身を典型的にやさしい人だと思っている。
傷つくのを避ける。
だから、かなこさんに本当に嫌われたら、その時点で傷ついて、死にたくなっているだろうけど、それ以上に傷を負わないために、彼女のコミュニティの範囲から逃げ出すのである。

これは、僕が臆病者である、ということでもある。勇気にはハードとソフトがある、と河合隼雄は述べる(『こころの処方箋』より)。強大な敵に立ち向かう、などがハードな勇気である。一方で、ソフトな勇気とは、立ち向かう勇気とは少し違っている。例えば、お礼を言うときに、ドギマギしてしまうということがある。好きと伝えることをためらうことがある。そうした時に、ソフトな勇気が必要なのである。

しかし、こうしたソフトな勇気は、優しさに必要なことなのだと、河合は言う。僕は、なかなか、面と向かって「かわいい」とも「好きだよ」とも言えない。勇気が足りないのであり、結果、優しさにも欠けているのである。

まあ、そんなわけで、かなこさんが僕のことを嫌っても仕方のない素地は多分にあるのだが、今回の織原さんの件に関しては、本当には嫌われてない、と思っている。かなこさんは、嫌いになったとしたら、直接的には言わないと思う。根拠はない。そんな気がするだけだ。

そして、これは推測であって、本人の心情の本当のところは分からないが、「嫌いになった」というのは甘噛みなのではないだろうか。「私のことも構ってよ」ということなのだと思う。
かなこさんは、直接的に甘えるのが苦手なタイプなのではないか、と思っている。あずみさんのぽえむについても言及していた。自分には書いてくれないのに、ということなのだろうと。まあ、僕が甘える相手としてカウントされるのかはよく分からないけれど。

僕は、これは良くないのだが、親しい人ほどぞんざいに扱いがちだ。なつきさんは、ちゃんと大事にしないと女の子は心が離れて行っちゃうんだよ、と忠告するだろうし、あずみさんなら、もっと大事にしなさい、と男前に叱るだろう。
なんにせよ、かなこさんなら分かっていてくれるだろう、と他の娘のことばかりをツイートしているし、臆病者だから、褒めたりもなかなかしないし、甘え切っているところはあるのである。

僕は、好きな相手ほどマイナスなところを探す傾向がある。
そうして、その人の中の嫌いな部分を作っていく。それは、好きになりすぎてダメにならないために、バランスをとっているのだ。好きであることに溺れないために、気持ちを殺していくのである。
さて、殺された気持ちはどこへ行くのだろうか。河合隼雄は、己を殺すことで、その殺された部分がどこかでうごめいて、蘇って、他人様に迷惑をかけているかもしれない、と言っている。僕のこころは、ゾンビのように、どこかで誰かを殺そうとしているのかもしれない。場を殺していく、そういうことがあるとしたら、きっと、殺された僕の一部が暴れているということなのだろう。

そんなわけで、僕はケンカをしない、というよりもできないのだろうと思う。傷つくのを怖がって、他人との深い関わり合いを避けてしまう、その僕が、ケンカできるほど、他者との交流が持てるとは思えない。かなこさんの話も、ブロックされた話も、ケンカではない。ケンカというのは、双方向の敵意が必要だ。かなこさんは敵意じゃないし、ブロックは僕が逃亡したから、争いにならなかった。
強いて挙げるとするならば、殺された僕の心の一部が暴れ出して、それに他者が応戦したとき、ということになるのではないだろうか。だから、彼女たちにはブロックされたのではないだろうか。まあ、ブロックされたから、彼女たちのことが嫌いになったかと言えば、別に今でも嫌いではない。まあ、そんなことで嫌いにはならない。今度行く舞台は、彼女に教えてもらったものである。

ある意味で、舞台や小説というものは、分断されたピースとピースの集合である。舞台においては、ケンカをしようが何をしようが、そこで断章すればよい。次のシーンでは、仲直りしていたっていい。その隙間に、不都合は隠されてしまえばよい。しかし、人生というものは、そういうピースではない。流れなのである。だから、人生は音楽である。刹那の芸術なのだ。

そして、人生は、関係の芸術でもある。わたしとあなたは出会った時点で関係していて、影響しあっている。ケンカをするという行為は、一瞬の激情であり、他人への興味の一形態だ。好きという気持ちも、強い、他人への興味の一形態だ。僕は、どちらも薄い。「やさしいねぇ」と言ってくれる人もいるが、他人の針が刺さらない距離を保つための、当たりのやわらかさと偽善的行為がそう見せているだけなのだろう。だから、そんな僕だから好かれなくても、嫌われても仕方ないと思ってもいる。

人生は連続したものである。
関係性が断絶したとしても、僕が、彼女に抱いていた好意は、何かしらの形で続いていく。変化していく、と言ってもよい。愛は憎しみに変わり、事件に発展することもあるが、これは、何かしらの興味が続いているものだ。
いつか、その興味が失われていくかもしれない。その時、人は忘れられるのだろう。忘却とは、誰かからの興味の喪失である。

いつか、かなこさんが卒業したら、その前に嫌われてブロックされてぴえんぽよんぱおんからの失踪になるかもしれないが、そうなったら、僕のことも忘れていくだろう。それは仕方ないことだ。僕もかなこさんのことを忘れていくと思う。どうしようもないことだ。
まなかさんから、好きなものへの興味がなくなっても、また何かのきっかけで再燃するタイプだよね、と言われた。そうならば、僕は忘れてもまた思い出すのだろう。
そして、僕は、このちっぽけな、ほんの少しの愛をこころの中でささやくのだ。あの時、意気地なしで言えなかった言葉たちを。どこか、遠く、あなたへ。

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