セルフイメージ

セルフイメージというのは大事で、自分がどういう人間であるか、どういうふるまいをするのか、それが規定されていく。

僕は、セルフイメージとして、『さよなら絶望先生』のOPで風浦可符香(P.N)の顔に「嘘」と書かれた絵、あれを考えることがある。本当の自分はこんなではない、というよりも、嘘という仮面を付けて自分自身を隠している、その他者との距離感を感じる。

パーソナルスペースというものがあるけれど、こころにも、そういう距離があると思う。僕は、たぶん、他人との距離が遠い。こころの壁、仮面、嘘。いかにして、距離をとるのか。そういうことを考えているわけである。無意識に、そういうことをしている。

接触が苦手だったり、肌をさらす(水着や温泉など)が苦手だったり、そういうところもある。さあやさんと同じなんだけど、まあ、彼女が苦手な理由は分からないけど、僕は、こころの距離感も影響しているのだと思う。自分をさらけ出さない。弱くて柔らかな核のようなものをさらさないように、厚く着込んでいる。

ツンデレ、ではないと思っているけど、素直になれなさ。その意味では、高須賀さんのツンな態度は分からんでもないわけです。こころの内をさらけ出すのが苦手、ということは、嬉しさや喜びを直接的に表現するのが苦手ということでもあります。だから、僕は感謝されることが苦手だったりする。別に大したことないから、という態度になる。何なら、感謝される状況を生み出さないように、最初から逃げてしまう。シャンパンを入れて、開けさせないような。まあ、これは、善というものは自分のために行うものではないのだから、感謝という対価を求めてはいけない、という謎の考えにもよっているのだけれど。

距離感をとるということは、人との関わりが苦手というところもある。そんなわけで、集団に属するのも少し苦手なわけです。みーあんさん的な、仲良くなれないならそれでもいい、そういう、突っぱねたところがある。慣れたら、まあ、慣れるんだけど。

僕は、視覚と言語が優位だと思う。だから、言語という、物自体から離れた、抽象化された世界を生きている。それは、僕の、世界から距離をとること、にもつながっていると思う。概念を操る峰島嬢と同じかどうかは分からないけれど、似たところがあると思う。と勝手に思っている。

その意味では、冬野さんが一番遠いのかもしれない。配慮の人。僕は気配りしているつもりで、気配りできていないことが多いので。でも、配慮するということは自分を犠牲にするところもある(また、この自己犠牲が自分らしさでもあるため、これらは裏表とも言える)と言うこともできるわけで、その意味で、僕の善なる行動の考えと近いところもあるのかもしれない。

まあ、テキトーに書いてみているのだけど、僕は、僕というフィルターを通して世界を見ている。僕の思想や偏見の入り混じった世界を。そして、何かしら共通点を見つけながら、世界とつながっている。可符香ちゃんが移植された身体の一部によって、多数と繋がり、絶望先生と繋がっていたように、僕も、僕自身のバラバラな個性を、他者の何かしらとリンクさせて、繋がっているのである。

まあ、それは、考え方だったり、目的や思いだったり、感じ方だったり、さまざまなわけだけど、価値観と呼んでしまおう。価値観の共通性が、僕の人間関係を繋いでいる。緩く。柔らかく。細い線のように。でも、すべてを見せるわけではない。むしろ、他人には見えないように、自分だけが分かっている。そういうもの。マスク。表情が見えないように、外界から遮断するように、マスクをしている。外界に侵されないように。他人によって自分を変えられないように。嘘をかぶりながら、僕は他者に憧れ続けている。

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私の個人的な身辺雑記

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