キレイであることと正しさについて

岡田斗司夫のホワイト革命の話を聞いていて、アイドルやメイドの「行けないと言うな」の感覚を考えていた。

ホワイト社会というのは、キレイなものが正しいという価値観なのだけど、キレイなもので覆われて、汚いものは正しくないから隠されてしまう、というところがある。その例として俳優だったり料理だったりが挙げられている。さらにそれが進むと、発言もきれいと汚いに別れていく。悪口や暴言は汚いものとして扱われ、正しくないものになっていく。それは、SNS的な「ミュート」によって見えないところへ追いやられてしまう。キレイなものに囲まれたい、そういう社会になっていく。

とすると。「行けない」という話はネガティブな話題(彼女たちにとっては)だから耳にいれたくない汚い発言、すなわち正しくないものになってしまうのだと思う。そういうものは、ミュートされていってしまう。アイドルは仕事としてミュートがしにくいから、「言わないで」と怒ることになる。

SNSの自己本位性を考えると、自分にとってのネガティブ=きれいでないものが正しくないものになってしまう。そう考えてみると、彼女たちの叫びもなんとなく腑に落ちるところがある。

SNSのリゾーム的な接続とグローバリズムの中の移動可能性というものが、(接続と切断のように)信頼と無関心という軸で考えられるとしたら、信頼は性善説的な無根拠に信じることだし、無関心は感情による偏りの排除であって、感情の平準化であるということもできる。リゾーム的接続やグローバリズムの多様性を成り立たせるのは、信頼であり無関心である。としたら。これらの接続的なものとしてのSNSは信頼からくる連帯と無関心からくる分断に別れていくのかもしれない。

そう考えると、何かを努力するということ自体がキレイなものでないとしたら、それは正しくないものになってしまう。つまり、ある種の神秘さをもって美しくしなければ、正しくないものとして排除されてしまう。泥臭く頑張る姿を美しいと表現する。その正しさ。頑張ってる姿の美しさを。

正しいか正しくないか、ということを感覚的なキレイと汚いにしてしまったら、それは感覚的な問題が倫理的な道徳的な正義に繋がるということなのかもしれない。努力は正しいという倫理が、努力は汚いという感覚に追いやられてしまう、ということがあるとしたら、感覚によって正義を動かすことにある。逆に言えば、見栄えを良くすることで正しさを押し通すことだってできてしまう。そういうことを考えると、美しさは武器になる。感情をいかに揺さぶるか、というマーケティング的な話になってくる。ヒトラーが日の光を背に背負ったような、感性への働きかけが正義という意思の問題に浸潤するのかもしれない。

だとしたら、LineやInstagram,TiktokのようなSNSの、写真やイラストによる分かりやすさ、そういうものが幅を利かせるのではないだろうか。岸田総理を落とす動画がずいぶん出回っているらしい。実績とは別に、動画の分かりやすさが正義の判断に繋がっている。

でも、ヒトラーの事例もそうだけど、そうしたことは昔からあったわけで、思考が感情に負けることなんていくらでもある。そういうことを差し置いて、ホワイト社会だからそうなると言い切ってしまえるのかは分からない。分からないのだけど、画像やイラストや動画のような分かりやすさ、反応的なメディアがより好まれることになるのだと思う。なっているのだと思う。感情的に分かりやすいから。

落合陽一の動画で、動物→人間→計算機と進化する(ような)図が示されていた。ゼミ生と出ている、NewsPicksの動画。それを見て物象化を肯定しているのだと思った。マルクスは物象化してしまうからこそ、人間性を回帰すべきという考えだと思われるけど、そうではなく、むしろ物象化することで人間は別の何かになる余地がある、ということを考えているとしたら。つまり、人間は人間にとどまる、というのがマルクス的な考えで、人間は次のステージに進む、というのが落合先生の考え方だとしたら。

ひとつの図からの創造であるから、あくまでも妄想でしかありませんが。計算機自然は計算機が自然=植物や動物と同じようにそこにある世界である、というものです。人間の枠に収められた計算機ではなく、計算機が計算機としてそこにある世界。その計算機の創り出す(人間の認知の限界を超えた)世界を生きる。つまり、計算機が人間に従うのではなく、計算機に人間が従う世界になる。これは、自然の摂理に従って生きてきた人間が、おなじように計算機の摂理に従うということ。摂理に従う、というと計算機に支配されているかのような書き方ですが、たぶんそうではなく、自然を扱うのと同じように、計算機を、要はデジタル技術を扱いうる、ということなのでしょう。

そして、その中では計算機の正しさの問題が出てくるのかもしれない。ChatGTPのようなAIを使った文章生成技術は、それを正しいと信じてしまえるくらいにいろいろ書いてくれるし、それによって失敗してしまった弁護士が事例として出てきました。ちゃんとしている。キレイな文章で出てきている。画像でもいいですね。キレイな画像が出てくる。キレイだから正しいのだとすれば、AIが正しいと言うことが出来てしまう。

僕は、その正しさでいいのか、と思う。キレイだから正しい。それだけではないと思う。キレイであることが感情や直感と繋がっているとしたら、つまり選択におけるタイプ1のようなものだとしたら、もう少しタイプ2を考えないといけないのかもしれない。じっくり考えること。ゆっくり考えること。『スマホ時代の哲学』は接続し続ける現代において、切断される孤独が大事である、ということが書かれているらしい(あとがきと帯の説明を読んで、そうなのかな、と推察している)。この、切断の重要性は千葉先生も書いている。そして、切断をもたらすものとして、意味がない無意味、つまり身体(body)が考えられている。考えないこと。絶句すること。静寂。そういう無意味である。

メモを考えているのは、そうした身体を考えることだし、絵を描き始めたのも、身体の問題だし、たった今配信するというのも現在という身体性だし、つまり、僕は今、身体の問題に取り組んでいるのかもしれない。

それは、正しさを考え直すことなのではないか。キレイであるという感情的な瞬発的な正しさと対置されるような、ゆっくりと考えることから導き出される正しさを。投資家の短期的な利益訴求により、四半期決算が行われてきた。それが見直されつつあるが、四半期決算自体を手放すことはできていない。短期利益と相関する株式報酬も推進されているところがある。かつての鉄道会計では、短期投機家と長期投資家との間での利害調整が必要だった。そのために減価償却という会計処理が発展してきた。同様に、正しさも利害調整されなければならないのではないか。

それは、昔からあるようで、資本主義の中で失われた正しさなのかもしれない。

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