━━〈ウグイス〉から始まる ① ━━ 〘師匠と弟子〗
思いがけずまたウグイスの声が聴けた。
緑道と呼ばれる道がある。元は小川や用水路だったのを暗渠にし、その上を遊歩道にしたものだが、その緑道を散歩していた時、「ホー ホケケキョ」と聞こえてきた。「ホー ホケキョ」の間違いではない。ホケケキョと確かに鳴いたのである。東京という大都会にもしたたかに生きるウグイスの、強く大きなさえずりだ。
世田谷区と三鷹市の住宅街を縫うようにして続くこの緑道は、同じ道を世田谷区では水無川緑道と言い、三鷹市に入ると中川緑道と名を変える。名を変えた遊歩道をそのまま進めていくと、さほど広くはないが畑や農園が道の左右に現れる。現れ出た畑の向こうに竹林があり、そこからウグイスが大きな声を響かせていた。
今年ウグイスのさえずりを初めに聞いたのは3月初旬。この竹林からはそれほど遠くないある寺院の境内で、やはり竹林の中だった。まだ若いウグイスなのだろうさえずり方が何ともぎこちなく、高い竹の枝の上で葉に身を隠しながらひとり大声出して「ホ ホホケ ホホーケ ホーホッケケー・・・」と練習に夢中になっていた。
それから3カ月経った今鳴いているのは、あのお寺の若鳥が成長してのさえずりだろうか。それともそのライバルなのか。盛んにメスにアピールし、なわばりを主張している。
「ホー」は吸う息で「ホケキョ」がさえずりだという。若いウグイスは大人のさえずりを聴き、訓練を経て上手になっていく。「ホケケキョ」と鳴いているのはその師匠もホケケキョだったのだろうか。竹林のそばへ寄って聴いていたら、みごとな谷渡りも披露してくれた。
師匠による違いだけでなく、地方特有の鳴き方、つまりウグイスにも訛りというのがあるのだろうか。
山手線・上野の隣の駅は鶯谷であるが、その名の由来にこんな話がある。江戸時代、上野・寛永寺の山主(住職)は三代目からは代々皇族が京都から来て務めるのであるが、そのひとり公弁法親王(こうべんほっしんのう)が、「江戸のウグイスは訛っている」といって、京都から三千五百羽ものウグイスを取寄せて放したところ、この土地(鶯谷駅のある根岸・桜木のあたり)のウグイスもきれいに鳴くようになった。それでここがウグイスの名所になった、というのだ。
「ホー ホケキョ」にはいくつかヴァリエーションがあるが、「訛っている」というのは鳴き方なのか音の澄み濁りなどを言うのか。そしてそれは地域差によるものか、師匠による違いか。いずれにせよ公弁住職が最初に聴いた元禄期の上野の山の、また根岸の里のウグイスは、京のそれとはどう違っていたのだろう。音はその一瞬一瞬で消え去っていく。だから今その違いを正確に実証できる術がないのだが。
いろいろ調べていたら『江戸名所花暦』という文政10年(1827年)に刊行された江戸の行楽ガイドブックに、「此処は上方の卵ゆゑにか訛りなしといひ伝ふ 舌かろし京うくひすの御所言葉」と載っていたのを見つけた(巻之一 春の部 鶯 根岸の里の項、国立国会図書館デジタルコレクションから)。上方(かみがた)の卵とは京のウグイスの子孫ということであろう。
それにしても3500羽という数が本当なら驚きだ。鳴き声のよいウグイスを大量に集めるよう命を受けたのは、何と、尾形光琳の弟・緒方乾山(おがたけんざん)だという。公弁と乾山という実在の人物の名を出したこの話は、どこまで信憑性があるのかわからないが、面白い逸話ではある。京の西北・鳴滝泉谷に窯を構え、また二条丁字尾町に移住していた乾山が、公弁の誘いに(あるいは命令に)江戸・入谷に来たのは70歳目前だったはず。その時に何千ものウグイスを連れてきたとすれば、その江戸への道中はどんなであったろうかと、その旅の様子を様々に想像したくなり、興味は尽きない。
それはともかく、江戸期は現代に劣らぬペットブームがあったことが知られている。小鳥の飼育についても、古くは平安時代の貴族連中の贅沢な趣味だったが、それは室町期の武士階級へと繋がれ、江戸時代になると庶民にも広まって空前のブームが起こった。ペットショップはもちろん、飼育書も売れ、鳥などのペットの墓まであったという。そして和歌の優劣を競う歌合せのように、ウグイスなどの鳴く声の優劣を競う「鳴き合わせ」(啼合会ていごうえ)も流行した。根岸の里で行われた啼合会のことを記した石碑が残っており、台東区役所のホームページには『初音里鶯之記碑』として次のように記されている。「表に嘉永元年(1848)、裏に翌2年の銘記がある石碑。総高137.5センチメートル。その内容は、表に江戸時代末期に流行した鴬の鳴き声のうまい下手を競い合わせる啼(な)き合わせ(啼合会ていごうえ)がここ根岸の地でどのように始まったか記し、裏にこの啼き合わせの会に出品された鴬の名前と出品者の一覧が刻まれるものです。(以下略)」。
こうなると自分の飼ってるウグイスをさえずり上手に仕立てたいと、進学塾に子を預けるように、上手に鳴くウグイスのもとへ修行させる。それには初級から中級・上級など、細かくいくつかの段階があり、若鳥は師匠を変えながら徐々に進歩していくのだそう。もちろん預かる方はタダであるはずはなく、立派なビジネスとして成り立っている。春を呼ぶ鶯のさえずりを愛でる、という風流な趣向が、ビジネスになり、大きなイヴェントにと変質していくのは今と少しも変わらない。よくよく調べていくと、その浅ましい面も見ざるを得ない。
何事も市場経済に飲み込まれそうな現在の社会状況の一端を、江戸の鳥獣飼育文化にも見てしまうが、しかし、ここで今も変わらない大切なことがある。それは「学ぶ」ということだ。それも「いい師匠のもとで」という前提がつくことだ。
「いい先生、すぐれた師匠」というのはどういう人たちを言うのか。それは社会的に何か基準がある、というものではない。教えを受けたものが、それをどう受け止め、教えを深く心や体にしみ込ませるか、という問題である。つまりは反面教師ということをも含み、良き指導者であるとするのは、ほとんどが教え子の側にかかっているのだと思う。学ぶものと指導するものは真正面からのぶつかり合いだ。どちらも手を抜いてはいけないものだ。その真剣勝負ができる関係を築けることこそ優れた指導者、よき生徒と言える。そして生徒は一生を通じて指導者との勝負を続けていくのだ、と思う。勝負とはもちろんただの勝ち負けではない。師から学んで得たものを、自分はどのように取り入れ、かつ変容させていくか、という自分自身への戦いへとなるのだ。
一つだけ師と弟子の指導と学びに関する例を、少し長くなるが、出してみたい。
鶯谷駅の近辺に、江戸囃子の名人と言われる兄弟がいた。兄は笛の、弟は太鼓の名手である。そこへ縁あって10代の若い娘が笛の師匠に師事し、お囃子の稽古に通いだした。笛の師匠は娘を正座させ、笛に関する薀蓄や、お囃子とは何か、といったことを長々と語るのが稽古の中心だった。それらの話は、何十年とお囃子と共に生きてきた彼の人生哲学の披露であった。いつも娘は足の痺れを我慢して、じっと拝聴していた。
稽古の多くはこのような“講義”が中心であったが、いきなり江戸囃子の奥義にあたるような手を教授したりするという、何とも無体系な教え方である。それだけに娘には、学校の授業システムのようなものから大きく外れた教授法に、それとは認識せずに、不思議な魅力を覚えて通い続けた。それはまた師匠の、弟子への心のこもった、全身的な向かい方だったことを感じ取っていたからでもある。
ある時、よその町の町祭りに、乞われてお囃子を演奏することがあった。弟子の娘は未だ囃子の手を覚えておらず、師匠の吹く笛の傍で鉦を叩いていた。
露店の賑わいとは別にお囃子を聴く人たちはほとんどいない。だが師匠の笛は素晴らしく、指は篠笛の上を躍動し、音は高く低く太鼓との絶妙な間(ま)でやりとりしながら夜の街に流れ出ていった。やがて終曲となり、最後の最後に笛は「ふりしぼるような高音が、夜の空気をつきぬけて辺りを轟かし、余韻を残しながら消えた」と、後になって弟子の娘はその日のことを振り返ってこう綴った。さらに彼女は「演奏は終わった。私は夜空を見上げて、たった今つきぬけて、そして消えていった音の先をさがした。どこへいくのだろう。誰の胸に残るのだろう」。
娘だった弟子はさらに続けて、師匠の「最後の高音を吹くときは、思いを残さないように全てを吐き出すんだ」と、普段の稽古の中で言っていたことを思い出した。そしてこのとき、娘は「私はプロになる」と決意したそうだ。
その決意通り、いま彼女は、篠笛や能管などのプロの横笛奏者として、国内で海外でと演奏や作曲に、そして指導者としても活動している。(もっとも今はコロナ禍の影響を受けて活動が制約されているが)。
お囃子の笛と太鼓の名手が亡くなって久しいが、その師匠たちに出会えたことは、弟子であった篠笛奏者にとって大きな幸せだ。と同時に師匠の方も、演奏家としての素晴らしさを見抜く力を持ち、しっかり教えを自分なりに昇華させようとプロ奏者になった弟子をもったことは、やはり大きな幸せであると言えよう。
だが弟子はいつまでも弟子であって、たとえ他がどんなに「師匠を超えた」などと言っても、やはり師匠の後をどこまでも追うのが弟子なのだ。
今もその篠笛奏者は、あの夜空につきぬけた最後の高音にたどりつきたい、と、必死に願っているのである。「ふりしぼって、思いを残すことなく、全てを吐き出す」音を、と。
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