民衆精神史の語り部 逝くを哀しむ

「君も僕と同じで、根はタシツセイだな」タシツセイ?多質性?他質性?……「湿っぽいの多湿性だよ、アッハッハ」と破顔一笑した色川さん。新聞で『色川大吉さん死去』との見出しを見たとき、端正にも厳めしくにも見えるお顔が急に崩れて、飛び出した笑い声がいきなり私の頭の中に鳴り響いた気がした。あの、ちっとも湿っぽくない笑顔とその時の大きな笑声は、もう何年も前のことなのに。

色川大吉さん。歴史学者、民衆精神史研究者、自分史提唱者などなど。歴史学の学徒でもない私が数多い色川さんの著作の中の幾冊かを読むようになったのは、霧ヶ峰の山小屋「コロボックル ヒュッテ」の前主人・手塚宗求てづかむねやすさんとの出会いあってのことである。そのことはこのnoteに『「ころぼっくる・ひゅって」の夜に』と題して記した。    『明治精神史』『明治の文化』『ある昭和史 自分史の試み』『燎原のこえ 民衆史の起点』と色川さんの本を読み進めていって、私はその毅然とした主張に共感し、硬質な主題であっても時折文芸的文飾を織り交ぜて、やわらかに叙述する巧妙な文章作法にも感心し、魅了された。また講演では、熱のこもった口振りで、例えば明治期の困民党指導者一人一人の人間像を、詳細な資料の基に活き活きと蘇えらすみごとな語りであった。
だがその色川さんはあくまで著作者、講演者という遠い人で、何ら個人的な接点もないし、手塚さんを通して何らかの接点を持とうなんて考えもしなかった。

 そんなある時である。私はそのころ秩父事件に大きな関心を持って、関連する各種の本や記録を貪るように渉猟しつつ、仕事の休みの時は秩父のあちこちを歩き回ったりしていた。当時1980年前後の頃は「自由民権100年記念」として各地で様々な催しがなされていた。私もまったくの素人ながらもいくつかの集会に出席していたが、その一つ、秩父市市民会館であったか早稲田大学であったか、あれは『秩父事件100年顕彰集会』というような名の集会の一つでのことだったように思う。上映された秩父事件の映画が終わり、シンポジウムが開かれるまでの休憩時間、ロビーで先ほどの映画について考えていたところ、トイレから関係者の控室に戻る途中なのか色川さんがこちらの方向に歩いてきた。通り過ぎようとしていた色川さんと、何となく目があってしまったその瞬間、私は「先週コロボックルに行ってきました!」と思わず声が出てしまった。えっという感じで立ち止まった色川さん。呆気に取られて私を見つめたがすぐに「おうおう」となんだか言葉にならないような声を出してから「行きましたか。そうですか」と応じてくれたのには私の方もびっくりして、こんな時に突拍子もないことを、しかも相手には私など面識もない人間なのに、自分は何を言ってしまったんだろうと後悔した。「すみません。大変失礼しました」と私はひたすら謝ったように思う。色川さんはいやいや、いいんだよという風に手を振り、それから手塚さんはどうしてましたかとか、ヒュッテはお客が来てますかといった問いかけを少しして、去っていった。
私は会場の席に戻ってからも、何故あの時急に「コロボックルヒュッテ」なんて自分でも思いもよらぬことを口走ってしまったのかと、身が縮むような思いにとらわれて、始まったシンポジウムの各氏の発言もそぞろな気持ちで聴いていたことを思い出す。

 そんなことが機縁となっていろいろな集会やイヴェント、あるいは講演会などで色川さんとお会いしたときや、さらには大学の研究室や稀にだが喫茶店などでもお話を伺ったりした。でも話題は私が歴史学には門外漢なためか山や旅の話が中心だった。色川さんは二高時代(旧制高校)は山岳部員であったし、日本山岳会の会員でもあるのだ。また旅では日本以外ではシルクロードやチベットについて多く語られ、ことに嘗て栄えて今は砂嵐の中にうずもれた廃墟に立って文明の行く末を見た話は素晴らしかった。
そしてある時、互いに子供の頃の話になって、色川さんは浪曲というか浪花節をさかんに唸った時もあるという。私も、父がラジオで広沢虎造や春日井梅鴬などをよく聴いていて、自分もそのまねをしては「いいかげんにしろ、下手くそ」とよく怒られた話をした。さらに古い歌謡曲へと話は移って、色川さんは親たちがよく聴いたり歌ったりした古賀メロディーなどで育ったと、歌いはしなかったがいくつも曲名をあげたが、名前だけでも知っていたのは半分にも満たなかった。私は、歌謡曲はあまり好きではなかったけど、周りは美空ひばりや三橋美智也などの歌謡曲であふれていて、今でも年配の人たちが私がギターを弾くと知ると、ギターといえば古賀政男なのだから古賀の曲を弾いてくれ、と何度も頼まれ、楽譜を買ってきて弾いているうちに好きになってきた、と言った。そうすると色川さんが「浪曲に歌謡曲育ちか。戦中派と戦後派で20歳以上も違うけど、君も僕と同じで、根は多湿性だな」と言い、私がタシツセイの発音の字句を捉えられずきょとんとしていたのであろう、そこでこの記事の冒頭のように大きく笑ったのである。そして「日本人の精神的な土壌にはどこか湿っぽいセンチなところがあるんだ」と言うと、やや間を置いて「でも、それもいずれ変わるだろうけど」と独り言のようにつぶやいた。
 
色川さんは手塚宗求さんを「夢を追いつづける人」といった。その色川さんは、一貫して近代日本の民衆精神史を追い求め続けてきた人である。視座は常に底辺の人々にあった。歴史の闇に埋没していた民衆に光を当てて掬いあげ、その尊厳を取り戻して私たちに披露するとともに、さぁ、この人たちが命がけで願い闘った自由を民権を、生活権を、そして彼らが作りもし作られもした時代というものを、あなた方はどう考え、これからをどう生きるつもりですか、と私たち一人ひとりに鋭く問う。そういうものとして、私は色川さんの各著作を読んできた。

1925年生まれの色川さんは、軍国教育下の少年時代から大学に入って程なく「学徒出陣」で軍隊経験をした「きけ わだつみのこえ」の世代に属する。大学入学時は「東京帝国大学」、敗戦後に戻って卒業時は「東京大学」と改称されたのがこの時代を表してもいる。それだけに色川さんの社会を見る目は厳しく、容赦がない。それは著書の端々に現れ出ている。世の現状に対する批判を読むとき、きっぱりと、胸のすくような思いとなる。

今、私は色川さんから頂いた本『困民党と自由党』を横に置きながらパソコンのキーを打っている。
この本の出版社は揺籃社といい八王子にある。八王子は今は東京都の市部であるが、自由民権運動が盛んだったころは神奈川県南多摩郡に属していた。詩人・北村透谷は生地の小田原から東京の泰明小学校へ転校したが、その小学校の頃から自由民権運動に強い関心を示した。そして八王子の民権家で自由党員の石塚昌孝まさたかの知遇を得、息子の公歴まさつぐと生涯の親交を結び、後には公歴の姉ミナと結婚する。
色川さんはこの透谷に中学の頃から惹かれていて、大学で透谷の研究を始めたが、それが色川史学の出発点となったのである。透谷研究は、住まいを八王子に移してまで透谷の足跡を訪ね歩いたという徹底した実証主義から始まった。その資料を求めて旧家の土蔵などを開けてもらって古文書を調べていたら三多摩の自由民権運動に関するものが続々と出てきて、それら地道な努力が五日市憲法の発見などにつながっていったという。
「透谷研究家が自由民権研究家とか困民党研究家、民衆史研究家、民衆思想史家などという肩書がついて、司会者が、どれがいいですかと聞いてくる。自分史ブームのきっかけとなった人などと紹介されたりもするよ」と笑う色川さん。その「自分史」の言葉は全体史に対する個人史などではなく、もっともっと主体性を持たす意味で自分史とつけたんだという。そしてその先達は八王子の橋本義夫の「ふだん記運動」だったそう。ふだん記とは、「上手本意の競争をしないで、人生の報告書を一冊残すこと。美文名文などより、自分の生きてきた事実をありのままに記録すること」を勧めた運動である。
橋本義夫は八王子に「揺籃社」という名の書店をつくり、そこが地域の文化センターの役割を果たした。だが空襲で店も自宅も消失し、蔵書も大半が失われ、書店の揺籃社はなくなった。
しかし、橋本の「ふだん記」の運動に共鳴した清水英雄という人が、八王子に、自費出版を積極的に支援する出版社を作り、橋本にちなんで「揺籃社」と名付けた。『困民党と自由党』という、色川さんの最初の長い論文を出した出版社である。さらに奇しくも色川さんの最後の著作になった『不知火海民衆史』上下2巻はこの揺籃社から去年(2020年)刊行された。色川さん、実に95歳での上梓である。

ついでながら私が最も好きな作家は石牟礼道子であるが、水俣を訪れた色川さんに石牟礼さんが直接要請して『不知火海総合学術調査団』が結成され(1976年)、その団長として色川さんは水俣通いを続けた。調査団は報告書として1983年に『水俣の啓示』上下を刊行したが、その間、学術団としてどのように取り組むべきか、などの内部論争を含め、様々な困難に直面し、色川さんも苦しんだようだ。そのころの色川さんの心境の一端が、6度目の総合調査の折、石牟礼家での宴について色川さんが岩波の雑誌「文学」(現在この月刊誌は廃刊となっている)に載せた「水俣の一夜 交わらぬ対話」という文に垣間見る。社会学の鶴見和子、民俗学の桜井徳太郎、生物学の最首悟、教育学の西弘、映画監督の土本典昭、それに石牟礼さんと色川さんなどがいて、談論風発の様子が書かれているが、しかし色川さんは「私はそれらのやりとりを聞きながら石牟礼家の部屋の隅で緘黙する。世間は「学際的共同研究に期待する」と簡単にいうが,私たちの直面しているこの深い溝にいったいどんな橋が架けられるというのだろう。私にはいま前途に見通しがない。」と記す。色川さんにしては全く珍しい記述だ。その苦しみの程が察せられる。
そうして長い間(そう、40年ほども)その問題について考えてきたのであろうか。去年上梓された本、揺籃社刊の『不知火海民衆史』はその解答なのだろうか。私はまだその本を読んではいない。これから心して読まねばと思う。

色川さんは何か解決のつかないことに対して、何年かけても粘り強く考え抜くし、また論文や著書への批判があれば一時は感情的に怒ろうとも、論点を、時には数年かけて詳細に検討し、自分に非があればとても素直にそれを認める潔さがある。学者としてそれは当然のことではあろうが、それにしてもその気っ風の良さは誠に気持ちがいい。物事に真摯に丁寧に向かう誠実な、実に誠実な方である。合掌。




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