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タブーと倫理と固定観念

タブーは何処にあるのかと考えれば、それはおそらく共同体の中にあるだろうと。破れば共同体から追放される危険があるからタブー。例えば会社の中でタブーとされているものがあるとして、それを話題にしたり追及したり、はたまた批判したりした結果、その行為が会社にとってマイナスになるのであれば、タブーを守ることは会社内では正義であり、タブーを破った者を会社から追放することもまた正義なのかなと。そう考えれば、タブーを守ることとは共同体の内のルールを守ることであって、それは倫(なかま)の理(ことわり)を守ることであり、つまりは倫理を守ることなんだろうと。

その倫理に異を唱えるのは、いつだって共同体の中のはみ出し者。もしくは部外者。共同体の中の正義だろうと、外から見れば悪にも見えると。逆もまた然りで。この構図は共同体の大きさに左右されることもないのだろうに。そう考えると、異なる倫理の間に優劣があるとすれば、それはその共同体の大きさに比例するのかも知れないと。共同体に属する人の共同幻想で成立するのが倫理ならば、共同体に属する人の数が多ければ多いほど、そこにある倫理を守る人は多くなるので、その倫理の優位性みたいなものは上がると。そうなってくると倫理に対して少しの怖さも感じてしまう。

きっと、共同体の規模が大きくなればなるほど、その構図をしっかりと理解している人は少なくなるのだろうに。はみ出し者や部外者との接触率は限りなく零に近づいてしまうから、そこにある倫理も絶対正義に見えてしまうと。そう捉えても不都合は起こりずらいし。なによりそこの倫理の正当性を担保するロジックを知る必要もなくなって、倫理そのものが正しさの理由となり、それが固定観念として思考に宿ってしまうのかなと。はみ出し者や部外者が目の前に表れたとき、彼ら彼女らを全力で否定し排除してもそれを止める人はいなくて、なんなら称賛もされるのかもしれず。その称賛の理由もタブーを守ったことであり、そこの倫理を守ったことでもあると。加えてその正義を担保しているものが全員の共同幻想で創られた固定観念であるとすれば、それは怖い。

それではと、この世で最大規模の共同体はなんだろう考えれば、きっとそれは人類そのもの。そして全人類で見ている共同幻想もあると思う。本来は進化論的なシステムで獲得した価値観の多様性で、全人類が同じ共同幻想を見るはずはないのだけれども、システムの不備というか穴はあり、ひとつだけ限りなく普遍的な価値観はあるのかなと。その普遍的な価値観で全人類が見る共同幻想から生まれた倫理は、やっぱり固定観念も生み出していて。あまり怖くて触れたくないから詳しくは言及しないけど、それは命や人の在り方に関する視点や視座なんだと思う。過去も今も多くの人が説いて来たけれど、それが天動説の惑星に見えて他ならない。まだまだ勉強が足りないのかなと。

そんなことを思う今日この頃です。

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