触れど、進まず、積み上げず。

「ギターを触れ、毎日弾け」

多くのギタリストが、ギターを始めんと意気込むキッズたちに向けて、このセリフを発信してきただろう。

一芸に秀でるため探求とは、意識ある継続の上に成り立つ。意識ある継続とは、過去の自分を越えんとする意思と非情なる自らへの客観視に成り立つ。意思と客観視、ここは人によって様々な土台によって成り立つ。

学問だろうが芸術だろうが、我々はそれで飯を食う為に、食った飯を吐き出すほど考えてその一つをやり続けて磨いている。(磨き続けたやつの8割は削れて消えていくのだが)

上達は、思考の行き届いた継続でしか生まれてくれない。少年は今日も指を指板の上で這わせながら、Fコードを弾ける夢を掴み損ね続けるのだ。

大抵の人間、それは僕も例に漏れず、続けたいことを挫折して、やめたいことを継続している。それは「怠惰と慰めが入り混じっている」から。そんなことをふと思ったから書き起こそうと思う。

昔と、今の話



僕は今、エッセイストになりたいと考えている。大学生の身の上でも、完成した文章すら書いたことがなくとも、思ってしまったからもうどうしようもない。なりたいのだ。

少し前は、本気でミュージシャンになりたかった。作曲して、小さい頃からやっているドラムを叩いて、食っていけたら最高だ、と。

大学生になりサークルに入ると、自分よりはるかに音楽的素養と見聞のある人間がゴロゴロいた。そんな中の先輩たちが就職について真剣に悩んでいた。その時、「音楽の世界には自分は必要ないな」なんてセリフを、自分で自分に刺した。

ここまで上手い人を拒む世界に自分が入ろうとするならば、それは極刑とも等しい処分が下されるんではないか。
気づいてしまった。

気づいた後に、崩壊した自分のミュージシャンへの破片を整理していくと「作詞」したメモに気が向いた。なんせ音楽的素養がない。言葉を連ねど音に乗せられないのだ。(コードを大して勉強しなかったのもあるが)

溜まりに溜まった「歌詞になり損ねた言葉」を供養したくなった。ただ未完成のものを世に出すことを恥だなんて意気込んだ結果、


「エッセイスト」が頭に浮かんだ。


そうだ、尊敬する糸井重里氏のように、言葉を仕事にしよう。ほぼ日で毎日届いてくる、あの暖かな陽だまりのような文を書くのだ。息巻いた。

だが、時が経てど筆は進まない。
今も進んでいない(本文も今の前フリの段階で正直飽きている)。でも就職する選択肢がない私はそこにしがみついている。

そこにアルバイト、大学生活、サークル、その他諸々の事情(ここのストレス値が余りに大きいのだが今回は割愛)、がなだれ込んで色んな所から逃げている。逃げ切れていない。

時間をすり替える



そうすると、この感覚を初めて味わったのだが、人は悩むのだ。「悩む」なんて言葉をちゃんと使ったことがないから、うまく使えないけれども悩んでいる。

悩む暇があるなら文章を書けと言うけど、書けない。

そんな時つい家にあるギターを弾いてしまう。作曲しようと思った時、ピアノですることがどうしてもできなくて買ったギター。

悩む時間をギターに触れることで、昔あった夢の輪郭をなぞることで、さも自分が今クリエイティブな作業を営んでいるという妄想に浸る。大抵、真夜中の意識が朦朧としている時に行う。ほとんど効果はないが。


文を書けない怠惰を、過去の夢の余りを具象化したギターのG6のコードで慰める。自分がすり減っていく事実から目を閉じて、倒れる。

エッセイを積み上げず、ギターを奏でる。こんな毎日がいつか終わることを信じている。

何かを捨てることで変われるとアドバイスされるが、多分多くの集団に属することで満たされる承認欲求なくして、エッセイを書けるか否か。 
それを検証する勇気は、どこで買えるのだろうか。

行きの電車で、そんなことを考えた。


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