深夜徘徊と海星探し

「取り繕うことを自然とできる人」だって、疲れている。
ならば「しっかり意識しなければまともになれない人」は、この社会で生きていくのに向いていないんだろう。


元々僕自身が嫌われる側の人間だ、という話は前にした気がする。
中学校時代に実は、その原因を探って直そうとして周りの友達に真剣に相談したことがある。

距離感、発言内容、行動のタイミング・突飛さ、etc…
異常なほどボロクソに言われた。忘れられない、あの修学旅行2日目。
(逆に、あれだけボロクソに言える文句があるにもかかわらず、友達でいてくれていたあの人たちには感謝しかない。今も友達だけれど、ありがとう。)

その友人たちの証言を基にしてゆっくり自分を、改善させようとした。
社会性をつけていったというべきか、自らを殺していったというべきか。
自分の未知の部分をなんとか理解しようとした。



結局、失敗した。未だに直っていない。
抑えるべきところで抑えられないクソ仕様はそのままに、人の目は気にするビビり要素が加わって現在に至っています。

多分、人に合わせて行動するって、「観察」という能力が必須なのだが、
人と目を合わせられない+人との会話を覚えられない
という、最強最悪な僕はこの観察ができない。
できないと、人に合わせられない。でも怖い。
結果クソです。そうです、クソなんです。



この事実を受け入れるようにしているうちに、「深夜徘徊」の機会が増えた。正確に言うと「あてのない、意味もない深夜徘徊」。まさしく徘徊。
買い物に行くでもなく、ランニングでもウォーキングでもない。
熱帯夜でも酷寒の夜でも、丑三つ時付近に僕はドアの外に引かれていく。

高校では友達の家に行くコースがお決まりで、数か月に1回のペースだった。だけれども大学に入ってからは、本当にあてもなく、週2ペースでフラフラしている。

それは取り繕う回数が顕著に増えたからだし、気にする人の目が増えたからだし、必然といえば必然だ。
さらに理由を挙げるとするならば、「昼間にできないことをできるから」だろうか。

深夜なら、テキトーな服でも、ぶつぶつ話しながら、熱唱しながら歩いても人の目は気にならない。
深夜なら、コンビニの店員さんの目を見て話せるし、ほかの人がどんな風に行動しているか気を回すことができる。観察ができる。

深夜に街にいるほかの人は同じように人の目を気にしていないから、剥き出しの「その人」だから観察も楽しいし、簡単だからって部分もあるけども。

タンクトップに短パンの女性が、ネギと塩を買って、袋をもらわずに走ってスーパーを出ていく様子だとか。
女子高生の恰好をした40~50代の男性が道端でカップラーメンすすっている姿だとか。
公園でタバコを吸い、全力でブランコを立ち漕ぎして、疲れてまたタバコを吸うを繰り返すスーツ姿の若い男性とか。

取り繕った昼間には見られないたくさんの姿を観察するのだ。
人のバックボーンを想像する練習を、そこで重ねていく。
昼間にできない作業を深夜徘徊の最中で重ねられるから、徘徊してしまうという点があることに最近気づいた。


何かが見ている気がするけど、まぁ関係がないな。
ゆったりしすぎだけど、自分丸出しだけど、まぁいいか。
そんな気分になる、この深夜徘徊が何かに似ているな、と考えたとき思いついたものは、小学生の頃にいった日本海でやった潜行だった。

周りに観光客が誰もいない中で、母親は岸の方で居眠りしていて、俺は潜って海月と海星を網ですくってはぶん投げていた。延々と。
何も意味もないけど、それを気にする思考を育てる環境がない。

昼間って、取り繕うことが前提の空気で満たされた空間で、そこでは無理に自分を抑えなきゃいけない時もある。
深夜のあの心地よくまどろんだ空気は、そんなことすらありもしなかったように人にまとわりついて装甲をはがしていく。
自然とニュートラルに戻ってしまう。なぜだかは、わからないけど。


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